【異世界の姫君/1話】

「う……レスター……何度見ても泣ける最期っ……」

今日もまたティッシュケースを傍らに置き、ベッドの上で小説『エルティア戦記』を読みふける妙齢の女。

本にしおりを挟み、鼻をすすりながら取り出したティッシュを目元に押し当てる。

小説では主要な人物ではないので初巻で見せ場を貰って死んでしまう、騎士レスター。

終盤の活躍と散り際あってか彼女はレスターを登場人物の中で一番気に入っていた。

あの後、自己犠牲を厭わぬレスターが時間を稼いだお陰で、城内は幾分冷静さを取り戻す。

人間たちは神格騎士という上級の騎士に指揮され、再び攻め行って来た魔族を返り討ちにする。

主人公である剣士レティシスは、冒険者でありながらも騎士にも負けない獅子奮迅の活躍の結果、女王の眼に留まってこの国の騎士になったところで第一巻……いや、この物語は終わるのだ。

なぜなら三年前に発売されたこの『エルティア戦記』という作品は、もう書店に並ばなくなってしまっていた。もともと版数も少ないのかもしれないが、最たるものは著者であるエリス・クラウヴェルが病死してしまって続巻は出ないためだ。

泣きながらこの本を読んでいる彼女――姫川 彩(ひめかわ あや)にとっては、未完の名作である。

張られた伏線らしき箇所も然る事ながら、主人公のレティシス、国の運命はどうなってしまうのだろう?

続きが非常に気になる。

しかし、この続巻は書くものが居ないのだから――もう出版されない。

例え物語の続編を違う人物が引き継いで書いたとしても、自分はもう見ないだろう、と思っている。

(我侭よね……もう続きは見られないのに、書いてくれると言っても『原作者本人じゃないならダメ』なんて……。こんなにどっぷりハマッちゃってて、まるで恋でもしてるみたい)

この作品を愛するあまり、どこか恨めしい気持ちで茶色いハードカバーの本を見つめる。

白かったであろう小口側は処々飴色に変わっていた。

幾度となく読み返したのが伺える。

もう続きは出ない。

楽しみは個人の想像の先以外ない……というのに。

何度も自分に言い聞かせ、違う本を読んだりしているのに、結局またこれを読んでいる。

「あ~……! この世界で起こること、もっと知りたかったのにーっ!」

言いながらぎゅっと本を抱きしめ、くるんと背中からベッドに倒れこんだ。

そう――倒れこんだのだが。

「……え?」

どういうわけかアヤの身体はベッドをするりと通り抜け、あっという間に部屋が遠のいて広く真っ暗の闇へと落ちていく。

いいや、落ちているのか止まっているのか、それすらも分からぬ感覚が彼女を襲う。

不安に感じている暇は無かった。

全てを覆う闇から抜け出たと思いきや、今度はきらきらと輝く光の中にその身を投じられ、眩しさに痛む眼を閉じる。

そのため感覚でしか現在の状況を測る術はない。

が、目を閉じた後は風の音と強い空気の抵抗が身体全体に感じられ、止まっているなんてことは絶対に――ない。

恐る恐るといった(てい)で、ゆっくりと眼を開けてみた。

あたりには何も無い。あるのは碧空のみ。

遮るものは何もなく、山も海も全てが彼女の遥か眼下。

しかし、それが徐々に大きくなっていく。

「……ウソ……!?」

ウソなら良いが、自分は本当に落下している途中だ。

しかも、テレビなどでスカイダイビングの映像を見たときと同じような高さである。

正確には分からないが多分高度何千フィート、という単位だろうと軽いパニックになりながら想像した。

恐ろしい速度で落下しているのに、自分はパラシュートなんてものは持っていない。

身に纏っているのは抱きしめた本と薄い白のロングパジャマだけという最悪な事態だ。

(コレは夢? 絶対夢だよね? 夢じゃなかったらこのままじゃ地上にぶつかっちゃう……!!)

眼の乾きや風圧を訴える暇などない。

恐怖と、耳に聞こえる音が自分の絶叫か、風の音かも理解する事すらも出来ない。

あれほど遠かった地上が見る見る近づく。

見知らぬ街並みが、はっきりと確認できる。

あれは大きな庭なのだろうか? いや、城のような建物。

遥か遠くで放牧されているらしい牛や豚の姿もある。

ところどころ焼け焦げたような場所があるが、自分は一体どんな設定の夢を見ているのだろう。

……いや、今はそういうことではなく。

命の危機は地上に近づくに比例して増していくのだ。

(ちょっと! 本当に死ぬったら!! 私、お願いだから早く目を覚まして!)
――誰でもいい。

こういっては何だが自分なんてアテにならないようだから、助けてくれるなら名の知らぬ神にも祈る。

「誰か、助けてええ!!」

やっと最後に目を閉じる事を、感情をはっきりと言葉に出す事を許してくれた。

僅かな慈悲を無駄にすることなくアヤはきつく眼を閉じ、迫りくる最期を覚悟する。

ふわり、と重力や風の抵抗が瞬時に失くなったかのような感覚を受けたが、これが人生の終わり――なのだろうか。

「漸く雨が止み、晴れたと思ったら人間まで降ってきたぞ」

呆れたような、それでいて落ち着き払った女性の声がすぐ間近で聞こえた。

これが天使……いや、悪魔の声なのかもしれない。

それにしても柔らかくて、あたたかい。

「おい、いつまで人の膝の上に収まっとる。つい『助けて』というので助けたが、さっさと退かんか。手も離せ、いやらしいやつめ」

すっかり放心していたところにぺちぺちと頬を叩かれ、アヤは驚きながらもゼンマイ人形のように顔を跳ね上げる。

彼女に話しかけたのは今迄見た事もないほど美しい女性。

つり目がちな深緑色の瞳には、ぽかんとした表情で自分を見つめる姿を映していた。

風に優しく揺れる、柔らかそうな山吹色の髪は緩やかかつ丁寧に巻かれていて、陽に透けて蕩けてしまいそうである。

艶のある上品な白いロングドレスの上に、赤い天鵞絨ビロードの豪華なマントをつけている。

全体的に漂う清白な印象、そして最たるは頭上の細かい装飾が美しい、金色の王冠――……恐らくは高貴なお方なのだろう。

なんだか童話や映画に出てくる、洋風の女王陛下のような格好である。

それよりも、いやらしい奴、と女性が示唆したことだ。

アヤは漸く、自身の置かれている状況を把握する。

なんと自分は女性の膝の上に座って、この高貴な女性に抱きつくような格好でしがみ付いていたのだ。

女性の豊かな胸に掌まで置いている。

それは非常に……柔らかかった。

「……ひっ、ご、ごめんなさい! わざとではないんです! 痴女とかじゃないんで、訴えないでください!」

情けない悲鳴を上げつつ慌てて女性の膝から退き、

頭の中に『不可抗力』『冤罪』『裁判』などの単語が入り交じる。

混乱しながらも自分で誤解だと訴えているのに、何故か土下座しようとしたところで……自分が手に持っていた本が目に入る。

(……そうだ。私、部屋から落ちてきたんだ)

部屋から落ちてきたにも関わらず、どうして自分はこんな美しい女性と向かい合っているんだろう――?

物思いに耽るのはともかく、この女性の気が変わらぬうちにきちんと謝罪をしなければ、打ち首になるのも時間の問題のような気がした。

白い素材――象牙なのだろうか――で出来た椅子に背筋を無理なくスッと伸ばしたまま、当然ながら不機嫌そうに腰掛けている美女の足元へとアヤは正座し、頭を深々と下げる。

「あの……落ちたにも関わらず……胸まで触ってご迷惑かけてしまって、申し訳ありませんでした……いや違います。 墜落死しそうなところを助けていただいてありがとうございました。そして恥ずかしい思いをさせてしまって本当にごめんなさい」

おかしなことを言う黒髪の女、アヤを見たまま山吹色の女性は眉をひそめ、ゆっくり首を傾げる。

その視線は値踏みしているかのようで、少々落ち着かない気持ちにさせる。

「なんだ、おまえは自殺したかったのか? それは勝手だが余の城内ではするな。しかし、誰にも見つからなかったのだな」

よく城内に入ってこれたなと感心した様子で女性は小さく声を出す。

「いえ、自殺志願なんかじゃないんです。信じていただけるかわかりませんが……家でベッドに寝転がろうとしたら、ベッドの底が抜けて――」

アヤは困った顔で上空を指差す。

山吹色の女性もつられて見上げた。

空は高く青く広がっている。

「――気がついたら落ちてました。あなたの上に落ちたのは本当に事故……です」

そういえば女性に怪我はないかと尋ねれば、何も無いという。

「ベッドから……にわかには信じがたい話だ――夢でも見ているのか、と言ってやりたいところだが、実際お前は叫びながら空から降ってきたな。
大方魔術師の転移魔法の実験台にでもなったのではないか?」

若干訝しむ様子を見せながら、女性は右手に持った扇を折り畳み、左の手のひらに軽く押し当てる。

高圧的な口調のわりに魔術師がどうだと言いはじめた為、今度はアヤが眉をひそめる番だった。

「あの。お言葉ですが、魔法なんてあるわけない、と思うんですけど……」

余計なことを言ってしまったらしい。

「……なんだと? おまえ、どこからやってきた田舎者だ」

女性のきつめの目元がやや上がり、持っている扇をピッとアヤへ向けた。

どうやら打ち首メーターポイントが加算されてしまったかもしれない。

どこから来たのかと尋ねられたアヤは、たじろぎながらも日本からだと答えた。

「ニホン? 知らん。どこの領土にある?」
「日本はれっきとした国ですよ。ほら、極東の海の上にちょこんとある……富士山とか寿司とか舞妓とか」
「聞いた事もないな。地図にない国、ということでいいか?」

どうやら、この女性の中ではいずれも名前すら知らないもののようだ。

説明する言葉も質問もなくなり、静寂が訪れる。

「……あの、ひとつお伺いしても宜しいですか」
「なんだ」

アヤは恐る恐る、浮かんだ疑問を口に出す。

「ここは一体どこで、西暦はいつで、あなたはどなた様でしょう?」

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