「……敬称付けずにレトって、言って」
「……レト……」
「うん」
静かに彼は頷き、わたくしの身体にそっと手を回し……壊れ物を扱うように抱きしめる。
なんだか初めての抱きしめ方だな、と思った。
「……こっち、見て」
わたくしの頬に手を置き、自分の顔を向かせると……その顔が、不意に近づいた。
「――……」
言葉を発する間もなく、わたくしの唇に、なにかが重なる。
ほんのりと優しいのに、温かさを感じないような、口づけだった。
すぐに唇が離れて、レトゥハルト殿下がわたくしに悲しそうに微笑んだ。
「……いつからかな。リリーと一緒にいるだけで良かったのに、気がついたら触れていたくて……こうしたかった。リリーはどうだった? 一度でも、俺とこうしたいって思ったことはあった?」
「……ありました。好きって言ったら、どんな顔をされるのか。喜んでくれるかなとか……たまに、どきどきしながら考えました」
「そっか……俺は、ちゃんと思ってもらえていたんだね」
「……誰かにこういうことしたのだって……初めてです」
「俺もだよ。もっと、いろいろすごいのかなって思ったんだけど……」
わたくしたちはぎこちなく会話を続けていたが……やがて、レトゥハルト殿下は『ごめんね』と口にした。
「――……俺は自分が、最低だと思うんだ。リリーに自分を好きになってもらいたかったし、良いところを見て貰いたい、認めて貰いたいって思った。リリーだから好きで、魔導の娘だから好きになったんじゃないことも……今も変わらない。だけど。リリーは異世界の人で、俺は……俺たちはその、誰かに夢を見させる世界の住人で、リリーも夢であることを望んで……」
「――違います。確かに世界の在り方としてはそうかもしれませんけれど、誰でも良かったとかじゃありません。クリフ王子との婚約だって知らないことだし、地上にいったん戻ることだってわたくしの願望じゃありません。かといって……生々しく言うと特定の誰かを狙っていたわけでもないのです。わたくしだって、レトゥハルト殿下をこんなに好きになるとは思わなかったし、今まで想っていただけたのも……予想外だけど、心臓が高鳴るくらい嬉しかった。これだけは本当です」
わたくし、これで振られちゃったんだろうな。と、冷静に認識した。
でも、これで良かったのかもしれない。いつか悩みながら消えるのなら、全部ばれて興味をなくされた方がありがたいのだろう。
「――えっ?」
しかし、レトゥハルト殿下は、意外そうな声を発した。
「クリフォードの婚約者で、父上に寵愛されて、俺に熱狂的に思われて、ヘリオスにも盲目的な好意を向けられ、ジャンやエリクの不器用な好意を受け、セレスの強引な従者ぶりとか、ノヴァの騎士みたいな庇護欲で世話を焼かれるこの状況は、全てリリーが望んだことじゃないの……?」
「……は?」
わたくしたちは目を見開いたまま、互いに何を言っているのか分からないという顔で見つめ合った。
魔王様とヘリオス殿下が、ああ、と困ったような息を吐いたのを遠くで聞いた。
「魔王様」
「なっ、何かな」
「先程の望みに一つ追加を」
「…………」
魔王様は返事をしない。
ので、わたくしは拳を握って……レト王子の左頬を打ち抜いた。
どしゃっ、と床に倒れるレト王子を冷ややかに見つめながら、わたくしは握っていた手を開き、手首をぶらぶらと前後に揺らす。
「――レトゥハルト殿下をグーで殴ります」
「言う前に殴ったでしょ……まあ、仕方ないかな……許す」
魔王様は飛び散ったグラスの破片などに手をかざしてそっと修復し、ヘリオス殿下を手招きした。
これから何かが始まると危惧したらしい二人は、逃げるように部屋を出て行く。
それを止める必要は無かった。
「……なんで殴ったかおわかりですわね?」
「……どこか、間違っていたのだということは察しがついた」
「ここで素手の熟練度を上げたくはないのですが、まだ足りないようでしたらもう数発いきましょう」
痛そうに頬を押さえながら立ち上がったレト王子は、解せぬと言いたげにわたくしを見ている。
あんまり分かってないようだが……わたくしはもう一歩近づいた。
「……あのですね。なんか、わたくしの説明もすっごく良くなかったかもしれませんが……かなりレトゥハルト殿下は誤解しております」
もう数発殴っても良いかなと思ったけど、一発だけでもわたくしの手は充分痛いし、やはり間近で見ると顔が良いので、これ以上は心が痛むので止めておこうと思う。
やはり、あなたも自分の顔に感謝しておくんだな。
「まず、確かにわずかな願望を叶える世界とはいえ、何もかもわたくしの思い通りではありませんのよ。あなた方にはちゃんと受け入れる自由も拒否する権利もありますし……何より、わたくしはレト王子やジャン達を見たのは初めてです。思い通りだったらとっくにクリフ王子と婚約破棄しているし、家からは解放されているし……魔族は魔界に戻ってこられたはずですもの」
誰とも結ばれないエンドだって結構あるんだぞ。なんだったら多分、こんな魔界シナリオならリリーティアにはバッドエンド多そうだぞ。
セレスくんは例外で知っているが、実際設定も無印版とは変わっているようなので、わたくしが役立てたのはキャラ知識ではなく調合とアイテムドロップ知識だけだ。
「……思い通りにはなってないってこと?」
「ええ。それに、先程言ったようなことは一部望んでおりません」
「一部」
やっぱり少しは望んでんだろうという顔をされたが、わたくしは一応頷いた。
「魔王様やレトゥハルト殿下には」「――ちょっと待って、その殿下って止めて」
わたくしの言葉を遮り、レトゥハルト殿下は首を横に振る。
「――……レトって、言ってくれるかな」
「……レト王子」
「レトで……」
「レト……」
「うん」
さっきも同じやりとりをしたようなのだが、彼が満足そうだからそれでいいかな……。
「――……魔王様やレトたちには嫌われるより、人間的……あ、この場合種族としてではなく性格というか、内面、といえば良いのかしら。そんな感じで好感を持っていただけるのがありがたいですから。異性としての好感は、仲間に不要と申しましょうか……」
「……俺の好意も不要って事?」
「いえ、それは……結果的に、とても欲しいというか……」
「そ、そうなんだ……それなら、いいけど……」
どちらともなく照れてしまったが、今照れてる場合じゃないな。
「とにかく、みんなからモテて困っちゃう……とかしたいわけではございません」
「それは悪かった」
レトにもう一歩近づくと、彼は両手を広げてわたくしを受け入れる。
そこに、わたくしは飛び込んでいった。
「――ごめんなさい、わたくし……ずっと黙っててごめんなさい」
「びっくりしたってものじゃ言い表せないけど、いいよ」
「……好きです、レトのこと。誰より大好き」
「本当? リリーは俺だけがほんとに好きって信じて良いの?」
「信じなかったら信じてもらえるまで殴ります」
「なんか愛が激しいね……でも、うん……俺も、リリーが大好きだ」
ぎゅうっと腕に力がこもり、レトが嬉しそうにわたくしを抱きしめた。
「……嬉しい。さっき触れたよりずっと、愛おしい」
「ええ。さっきは、わたくしも振られてしまうと思っていましたから……」
すると、レト王子は小さく笑って、そうかもしれないねと呟いた。
「――終わりの日とやらが来てもいなくならないでくれるなら、それはないよ」
「では、学院の卒業日に……また魔界に連れ去ってください。お待ちしております」
すると、レトは頷き掛けて……えっ、とまた驚いた声を発した。
「なんで? 学院には結局行くの?」
「だって、クリフ王子との婚約破棄をしていただくという目的がありますもの」
「ああ……そうだったね……」
めんどくさそうだなというレトの顔。
わたくしもふふっと笑って、大丈夫ですよとささやいた。
「今後もあなたが一番。その次はいませんから心配なさらないで」
「その言葉が嘘だったら、大変なことになるから覚悟してね」
彼が言うと本当に大変なことになりそうで怖い。わたくしは神妙に頷いた。
「……俺を置いていくんだから、しばらくは俺に構ってくれないと嫌だよ」
「もちろんです」
「それならよろしい」
ちゅ、とおでこに口づけを一つ落とし、とろけるように笑ってくれた。