こっち……水の部屋に来て、ずいぶん時間が経ってる気がする。
夢の世界って、疲労や空腹というものをほとんど感じないようだ。
それはありがたいことだけど――……、いつもなら、ちょっとこっちで過ごしただけでも、とても長い時間眠っている状態だ。
多分現実では一日以上経ってるんじゃない?
ヘリオス王子やわたくしの身体の方は、食事やお手洗いとかしないといけないんじゃないのかしら。
一応それを打診してみたが今は話を聞く方が先だというので、わたくし達の身体が無事であることを祈ろう。この年齢で、おねしょとかしてませんように……。
「……あなたの質問にあった、レト王子達が仰っていたことですが。わたくしは、出来事の表面を少し教えて貰っただけ……と思います」
「わかったよ。それでもいい……」
それでも自分が覚えていない何かがあるかもしれないと、聞いてみたいのだと思う。
「ええと、レト王子は……確か家族四人揃っていたことは覚えているご様子ですが、お二人ともとても小さかったから、どういう生活していたかまではあまり覚えていない、と仰ってましたわね……当時から魔王様は引きこもりがちだったようですけど」
まああそこが仕事場でもあるし、何か用があるにしても居室で済んでしまうんだろう。
「……魔王の居室にはあまり近づかなかったと思う……ボクもほとんど記憶にないから」
「ちなみに、おいくつくらいだったのかしら」
「自分の年齢、ボクも知らないのさ。レトゥハルトよりは下だと思うけれどね」
レト王子は確かわたくしより二つ上だと伝えると、ヘリオス王子はじゃあ君とボクは同じくらいかもしれないと頷いた。まあ、そういうことだろうけど、実は双子という可能性が……ないな。
「話を戻しますけれど……魔王妃様はヘリオス王子をご出産後、伏せってしまわれたとか。滋養のつく食べ物も確保できず、魔界には薬草も生えていないばかりか、魔王様や幼いレト王子に医学知識も無いので病名も分からない。地上に渡るということも思いつかず、本当に……不幸なことに手の施しようがなかったとか……」
「…………そうだよ。母さんが亡くなってすぐ、魔王は……原因不明の病気だったら、ボクたちにも伝染ってはいけないからと、無情にも炎で焼いてたんだよ……!」
突如、ヘリオス王子の声に怒気がこもる。
「燃えていくのに……魔王は最期まで見届けることもなかった。何も出来なかったくせに、あんなことだけして……! 結局母さんは、見殺しにされたんだ。後継ぎさえ生まれたら――それで魔王は良かったに違いないんだ!」
そういってヘリオス王子はその身を抱くようにして『こんな血なんて』と呟きながら肩に爪を立てる。かなり強く爪は食い込んでいるのでちょっと心配したが、夢の中だから血は出ないようだ。
「守るべきものもないくせに、こんな血なんかにこだわって何の役に立つっていうのさ……!」
「――いいえ。魔王様は今も悔いておられます。きっと、わたくしたちが思うずっと前から、無力だった自分を悔やんでおられたのです」
「後悔する? そんなわけないでしょう? だって、何もしなかった! やらなかったんだ!」
「きっと魔王様は……何もできなかった自分を以前より苦しく思われていた。自分が幼い頃は、もう少しだけ城にも人がいたのだと。でも、いつの間にかいなくなってしまっていた……それも王族に失望されたからだと、そうお感じになったに……違いありません」
あの居室の扉を開けて廊下に出れば、誰かがいて声を掛けてくれたと仰っていた。
でも、少しずつ減っていき、誰もいなくなったときは……それを受け止めたくなかったんだろう。
きっと、魔王様は……王族が何も出来ず、妻もいなくなってしまった魔界を見たくなかったのだ。
「魔王様がはっきり仰ったわけではございませんが、魔族達を守れないこと、国のために出来ることが本当になかったこと……そして、妻も息子も見殺しにしてしまった事に……ずっと囚われていたのです。だから『そんな自分に希望を抱くことなんてまだできると思えるのか?』……そうわたくしに問うたこともあったのですわ」
魔王様が部屋を出ない理由。ずっとベッドの中にいて、飽きないのだろうかと思ったこともかなりあった。
一度、夕日を見ようと誘ったとき……魔王様はかなり抵抗感があったに違いない。それでも、あの居室から一歩踏み出すとき……魔王様は覚悟を決めてくださった。
最近は、まあかなりレアだけど……魔王様は書庫で図鑑を見ていたり、不思議そうに畑の作物を見たり、雑草と薬草を間違えて引っこ抜いてしまわれたりする。
魔王様が外に出るとその周辺には魔物が集まるから、足の踏み場に困る程度虫とかが地面に密集するのだ。声を駆けたら退いてくれるんだけどね。
魔物達って、スライムも虫も実は頭の良い子なのではないかしら。
「魔王妃様は産後の肥立ちが悪く、それで崩御されたのだと思いますが……きっとそうなることは分かって……ご自身のことを引き換えにしても、覚悟の上でヘリオス王子を望まれたのでしょう」
「――そんなことあるわけないじゃないか!!」
激昂したヘリオス王子は、声を荒げてテーブル越しにこちらへ身を乗り出した。
適当なことを言うなとばかりに怒りを込めた目でわたくしを見つめている。
「じゃあそうして待望のボクが生まれたって、あいつは何してたと思う? 具合も悪くないのにずっと部屋で寝てただけだよ! リリーティアが来るまでレトゥハルトも、何にも出来なかった」
結局そうなんだよ、とヘリオス王子は侮蔑の笑みを作る。
「リリーティアのことだって……ボクたちは何かから奪うこと以外、何にも出来ない……役に立たない王族なんだ」
「――ふぅん……?」
家族のデリケートで重たい内容にしても……実を言うとわたくしは、ほんの少し……いや、結構イラついている。
無礼千万ではあるが、ああでもない、こうでもないとウダウダうるさい横っ面をひっぱたいて叱り飛ばしたくなってきてしまった……。
「さっきから聞いていれば、あいつが悪いだのこいつがクソだの、あなた文句しか言ってないじゃありませんか。まあ、そこに最後ご自身を含めたのは……ちょっと分かってきたじゃないかって思いますけれど」
「あ……当たり前じゃない」
クソとは言ってないと訂正されたが、そんな些細なところはどうでもいい。
「世の中なんてギブアンドテイクとか言いますけれど、結局どこかの誰かが一番得するようになってるんですのよ。わたくしだって、さほど得しているとは言えない役回りです」
「……それは……」
「……わたくしだって未だに何が正しいか分からないんですもの。いつだって、わからないまま進むばかり。だいたい【魔導の娘】とかいうのだって、特定の個人を助けるためじゃありませんし……、あなただってわたくしを見て『これでボクは救われる』って思った……そう言っておりましたわね? はっきり言って、そんな年端もいかない小娘にそんな感情を抱く時点で、おかしいって思わなかったのかしら。救う? 何から? なんでわたくしがあなたを? 何のために? ……ほら、もうあなたの妄想が抱いたわたくしの素敵な輪郭が歪んできましたわよ?」
すると、ヘリオス王子はそんな、とか言いながら首を横に振った。
「リリーティア、なんでそんなひどいことを言うんだい? 君はボクの大事な友達で……」
「お友達だからって何でも無条件に言うことを聞いてあげるわけじゃございませんの。わたくし、あなたのお母さんでも女神様でもないんですからね……多分女神も裸足で逃げ出しますけれど。戦乙女だって、助けを求められたらウザいと吐き捨てるに違いありませんわ」
アリアンヌは割と控えめだけど、思ったことははっきり言うほうだ。
最初はにこやかに対応するだろうが、自分に必要ないと思ったことは割とすぐ切り捨てるっつーか視界に入らなくなるっぽいし。
あの子は取捨選択が素早いのだ。それがしたたかに生き残るためのコツだったのかもしれない。
当時、かわいさとかっこよさが絶妙にブレンドされていたレト王子のことでさえ、アリアンヌにとっては『リリーのオプション』くらいしか思ってなかったっぽい。
自分が得をすることがないと判じたからであろう。と、思う。
だから、ただかっこいいだけのメンヘラネガティブ男には興味なんて無いだろう。
そんなわけなので地上の救世主と比べたら、まだわたくしのほうが忍耐強くて慈悲深いと思う。
「リリーティア……ボクを、見捨てるの?」
そう呟くように聞いてきた声は低く、そしてこちらを見ようともしていない。
おっと、これはこれは……。ここで選択肢を間違えると刺されかねない。
でも、悲しいことに選択肢は出ないし、わたくしの中で答えは決まっているのだ。
「わたくしは、わたくしの信じたままに行動しているのです。魔界を救うことが役目であり、今のわたくしのやりたいことです。そして……魔界に住む人々が豊かになり、魔王様とレト王子、そして仲間が笑顔で暮らせるのなら、それはすごく幸せなことなので……今の暮らしが好きですの」
「…………」
「難しいこともあると思いますが……そこに、あなたも加われば嬉しい。わだかまりもあるのでしょうし、家族だから仲良くしろと、そんな横暴なことは言いません。でも、気に入らなくとも……魔界であなたの力も必要になるはずです。わたくしはあなたのことをよく知らないけれど、あなたも魔王様もレト王子も、誰が一番悪いとか不幸だとか、そういう事を判じたいのではありません。皆、どうすることも出来なかった……それだけです」
物理的にも精神的にも、きっと……魔王妃様の体力的にも限界だった。
医学や魔法が発達したとしても。なにか一つをどうにかしても、どうにもならないことだったに違いない。
「魔界にそぐわないから見捨てたいとは思いません。わだかまりがあっても、協力できることはして欲しいと……そう思っております」
言葉が彼に届いているかは分からない。でも、わたくしは自分の思いを言葉にし続けた。
「……わたくしは魔王妃様のこと、どのような方だったか全く存じ上げないのですが……、魔族で争うと知ったら胸を痛めて悲しまれることでしょう。皆を集めて叱ると思います。ふふ、そうなったら皆は大人しく言うことを聞くしかないのでしょうね……」
魔王様は亭主関白じゃないし、レト王子は基本女性には優しいだろうし、ヘリオス王子も多分……。だから、魔王妃様がすっごく大人しい方じゃない限りは尻に敷かれていたのではないかしら。
「――ヘリオス王子、一緒に魔界にいらっしゃい。なんとか皆で話し合いませんか……わたくしが取りなします。鎖を外して、わたくしの……なんでしたっけ、精神? 心? みたいなのを、解放してください。まあ、数発くらい互いに殴ったり殴られるのは良いんじゃないかしら」
きっとレト王子は激怒していることだろうが、わたくしが解放されたら少しは溜飲も下がるはずだ。
「…………魔界に戻ったって……ボクはなにもないし……」
「ない? なら、まずはわたくしのお友達から下僕に成り下がればよろしいのでは?」
「えっ……? なんでそうなるの……?」
「わたくしは記憶がありませんので、またここから始めてはいかがかしら、と。下僕なら、まあ……人のものですし、レト王子や魔王様もそんなにひどいことはなさらないはず。運が良ければボコボコに殴られる半殺しくらいで許してくださるかと。それに、下僕になっても、お友達に上がることだってできるかもしれませんわよ?」
「ボコボコにされることは決まっているのだね」
「ええ。わたくしお二方に大事にされておりますので」
にっこり微笑むと、ヘリオス王子はそうだねと力なく頷き、指を鳴らす。
すると、全ての鎖が外れた。
「あら……便利なので……わぁ!?」
久方ぶりに自由になった身体を見る前に、ヘリオス王子はわたくしの顔を自分の顔に近づけてきた。
「ちょっ、ちょ、近すぎ……」
「目を見るだけ」
「あれ気持ち悪いので嫌ッ……」
「心を元に戻すのに必要なのに。レトゥハルトの前で説明も出来ないままだよ? いいのかい?」
それは困る。得体の知れない病み値が上がるのはだめだ。
わたくしが観念したように大人しくすると、ヘリオス王子は良い子だねと言って――直後、あの頭がおかしくなりそうな、不快感が襲いかかってきた。
「リリーティア。話し合う気があるのなら……明日、ラズールの森で待っているよ」
気が遠くなる中、そう呟いたヘリオス王子の声が鮮明に聞こえた。