「――っ、いやあああーー!!」
 悲鳴を上げながらがばっとベッドから起き上がり、走ったわけでもないのに呼吸を荒げ、ぜえぜえと肩で大きく息をしながら室内を見渡した。
 部屋は灯りをつけっぱなしだったので明るくて、いつもレト王子に呆れられながら『飾り気がない』と指摘される室内には……わたくし以外誰もいない。
「……っ? な、ん……?」
 額を手の甲で拭うと、汗をびっしょりとかいていた。部屋着もしっとりと寝汗で濡れている。
 どくどくと力強く血液を送り出す心臓は、わたくしが見た何かを知っているように、通常よりも早い鼓動を繰り返している。
 何かすごく恐ろしい体験をしたように思ったが、夢を見た……のだとしても、本当に何も思い出せない。
 なんか……前にも、こういうよく分からない体験をしている気がする……。
「だ、大丈夫なのかしら……」
 はぁ、とため息をついて立ち上がろうとした途端、ドンドンと部屋の扉が叩かれた。
「ひっ!? だ……誰ですっ!?」
「……どうした? なんか悲鳴みたいなのが聞こえたぞ」
 ジャンの声だ。まあ、部屋が近くにあるのだし、わたくしも大声で叫んだ気がするから……何事かと心配してくれたのかもしれない。
 自分は無事だと証明するように部屋の扉を開けて姿を見せたが、汗だくのわたくしを見たジャンは眉を寄せた。
「なんだ? 汗、すげぇぞ」
「大丈夫です……あまり覚えていないのですが、どうやら怖い夢を見たようで……。ご覧の通り、部屋にも誰もおりませんし、わたくしもびっくりしただけで、ほら。無事です」
 戸口に立っているジャンから、部屋の内部が見渡せるように扉から横にずれて、驚かせて申し訳ないと謝罪を口にすると……ジャンも一応部屋の中をのぞき込み、何でも無いなら良いと言って自室に戻っていった。
 ゆっくり扉を閉めると、濡れた部屋着をずっと身にまとっているのも嫌だったので着替えようと服に手をかけ……せっかくなので入浴もしておこうと決めた。
 時計を見ると、もう夜の八時にさしかかろうという頃になっている。
「……あら、もうこんな時間。わたくし随分眠っていたのですわね……」
 割とわたくしの部屋を訪ねてくる人たち(魔王様以外全員だが)は、扉を叩いて返事がないと勝手に入ってくるので、わたくしがグーグー寝ているときにノヴァさんは中に入ってきて起こしてくれることも結構ある。
 何でこんなことになっているかと言えば……だいたい魔王城に住む人々は、防犯の心配が無いので鍵をかけていないことが多い。
 そもそも大体誰だって、部屋でくつろいでいるときノックをされたら返事をする。
 どこかに出かけていないと分かっている状況で部屋を訪ねて返事がなければ、寝ているだろうと判断しているだけだ。
 わたくしの部屋はそんなもんで済んでいるが、レト王子の部屋なんか散々だったような……。
 半年前まで彼の部屋に合成釜が置いてあったから、いつでも調合しようと思い立ったら部屋に侵入されている状態だった。しかも夜間・早朝は就寝を配慮してノックすらされない。
 わたくしは女子だからレト王子が寝ているときに、こっそり部屋に入るなんてことはしていないが……夜中にエリクが勝手にやってきては釜をぐるぐるかき混ぜて、物音で目覚めたレト王子がびっくりする……とかは、珍しいことではなかったくらいだ。
 さすがに現在は作業場ができたので、専門書や調合棚と共に釜が移動している。
 レト王子は数年ぶりに、自分の部屋を自分で好きなように利用することができているのだ。
 入浴を終えてから、そういえば夕食を食べていないと思い立ってダイニングに向かうと……そこには、ひとり遅い夕食を摂っていたレト王子がいた。
「あ……」
 わたくしの姿を見て、フォークを置いて立ち上がる。
「リリーも夕食を食べるだろ? エリクがオーブンに入れておいてくれたんだ……今出すよ」
「あっ、自分でできますわよ。レト王子はお食事の続きをどう……って、あら。皆と一緒に召し上がったのではなかったのですね」
「ああ。父上に、ちょっと……話をしていて」
 少し言葉を濁しながら席に着いたレト王子は、また食事を続ける。
 オーブンの扉を開けると、黒い皿の上にはベイクドポテトと鶏肉のハーブ焼きが乗っていて、端には彩りのためかブロッコリーとにんじんが添えてあった。
「おいしそう……」
 思わずそう呟きながらミトンで皿を掴んで引っ張り出し、テーブルに置いた板の上へ、熱い皿を置く。
 スープは小鍋の中に入っているので、それを温め直してカップに注ぎ、バスケットの中から切り分けられたパンをいくつか取り出して、レト王子の正面に座った。
「いただきます……」
「召し上がれ。どれも美味しいよ」
 俺が作ったわけじゃないけれど、と可愛いことを言いながら、わたくしににっこりと優しい微笑みを向ける。
「…………」
 いつもと同じレト王子。
 わたくしに向けてくれる表情全てが、とても優しくて綺麗で。
 あとどれくらい見ていられるのだろう。そう思った瞬間、泣きたくなった。
「――ごめん、リリー。面白いこと言えなかったかもしれない」
「違うんですの……そんな芸人みたいなことしろなんて望んでおりませんわ……いえ、そうじゃなくて、なんだか……わたくしにも、どうしたのか分からなくて……」
 わたくしの眉間にしわが寄ったのが、不快や憤りによるものだと勘違いしているようだ。レト王子が慌てているが、わたくしはただ泣きそうなのをこらえただけなのに。
「……やっぱり……昼間のこと……?」
 遠慮がちに声を落としたレト王子。その表情は決して明るいものではなく、彼自身も気にかけているのが分かる。
「……気にならないと言えば、嘘になりますわね。急にそんなことを言われても、とは思いますし……それでも、今すぐではなく半年待ってくれるだけ、譲歩なさったのでしょう」
 わたくしはそう話しながら鶏肉をナイフで切り分け、自分に言い聞かせるように話す。
「半年しかなくても、わたくしは……それまでここで出来ることをさせていただきます」
「――そんなの……彼らの条件を受け入れるつもりなのか?!」
 レト王子の声が大きくなり、じっとわたくしを見据えていたが、ついと視線をそらす。
「……ごめん。辛いのはリリー自身だっていうのも分かるのに、君に当たっても仕方が無いことなのに……自分のふがいなさに腹が立つよ」
――なんだろう……。
 この感じ。
 どこかで同じように、誰かがわたくしに謝っていなかったか?
 何と言っていたか。いや、そんなことが無かったかもしれない。
 思い出せそうで思い出せない。知っているようで知らない。
 なにかが……わからなくて、こわい。
「…………食事が、冷めてしまいますわ」
「ああ……」
 レト王子と、ほぼ会話らしい会話もしないまま……ダイニングには時折食器同士が重なる音などがするだけの時間が過ぎ、二人とも手早く食事を済ませる。
「洗い物はわたくしがしておきます。レト王子はゆっくりお休みください」
「――……」
 大丈夫だからという頷きを見せると、レト王子は寂しそうに目を細め、何かを言いかけた。
 ただ、それは言葉になることはなく、再び唇は閉じ、レト王子も頷きを返してダイニングから出て行く。
 今は何かを言うよりも、そっとしておくことが相手への配慮であると思ったのかもしれない。
――もし、わたくしが彼の背に縋って助けを求めたら。
 あの場所には帰りたくないと言ったら、レト王子はわたくしをどうするのだろうか。
 婚約者の元に送り出すだろうか? それとも、帰せないように――するのだろうか。
……そんなことを考えているのに気づいて、ばかだなと自嘲した。
 わたくしは、心の中にしまった強い不安と今回の学院などの一連で、かなり疲弊しているようだ。
 睡眠をしっかり取って、心を落ち着けるために精霊と対話でもしようかな。
 最近不眠がちでもあるし、薬の調合を参考に、ゆっくり眠れる薬でも調合しておこう……。