しんとした空間に、ごぼぼっ、という水っぽい音が突然大きく響いたので、驚いて目を開けた。
薄暗くて湿った匂いのする――なんだか懐かしい感覚の部屋。
懐かしいと言っても、思い当たる記憶の中には……こんな部屋はなかった。
それに、わたくしは寝ていた気がするのだけど――気がするだけで、実は白い椅子にきちんと座って、ぼうっと天井を眺めていたらしい。
この部屋には相変わらず明かりが少ない。
相変わらず……? と何かに違和感を覚えたけれど、それ以上は考えられなかった。まあたいしたことじゃなかっただけだと、視線を再び天井へ戻す。
天井は一面が水で覆われていて……というよりも水でできていて、床に向かって流れている。でも、黒くて光沢のある床は……少しも濡れていない。
水柱の中では小魚が気持ちよさそうに泳いでいて……ああ、この部屋は前に来たことがある、という既視感。
あのときよりさらに水が多い気がするけど――……待って、あの時、とは? 記憶を思い返そうとするが、もう思い出せない。
いやだわ……わたくしまだ若いのに、記憶力に難があるのかしら。
『……どうかしたの?』
目の前にいたらしい人物がわたくしに何気なく尋ねる。
特にわたくしのことを不審にも思わぬような口調で、ただなんとなく聞いてみた、という感じで。
「いいえ……なんでもありませんわ」
わたくしはその人……男か女かも判別できないのに、妙に親しみを感じるその人に笑みを向けた。
『……リリーティアと、またこうして話せるようになって嬉しい』
「……『また』……ですの……?」
……自分でそう返事をしたのにも関わらず、思い出せないことが申し訳なくもあって、胸に小さな痛みを感じた。
それにわたくしは、リリーであって……もうリリーティアとは名乗っていないのだ。
「…………あの、どうしてわたくしをリリーティアと呼ぶのでしょう。それに『また』って……わたくしを以前からご存じのようですけれど」
『リリーティアはリリーティアだろう? ずっと前から君をそう呼んでいるじゃないか。今更そう他人みたいな寂しいことを言わないでくれよ。子供の頃から互いは内緒の友達だったでしょう』
知らない人のような、知っている人のような口調と声で……わたくしの知らないことを吹き込んでくる。
「内緒の……? 子供の……いえ、わたくしには……」
『……ああ、そういえば記憶をなくしたんだったね。失念していたよ。三年前くらいから君と全然繋がらなくなったんだもの。悲しかったよ……でも、リリーティアのことはちゃんと知ってる』
三年前というと、わたくしがここに来てから……つまりわたくしがリリーティアになる前後のことくらいだろうか。
それ以前からこうしてリリーティアは、この人とも幽霊ともつかぬ誰かと話をし続けている……ということなのかしら。
それって、ちょっと……イマジナリーフレンドとかでは……? コレやべーやつなんじゃないの?
わたくしが警戒したようなそぶりを見せると、大丈夫だよと先に声がかかった。
『リリーティアに危害を加えたことは一度も無いでしょ? リリーティアは……こっちに意地悪なことばっかり言ったけども』
被害があったんだ。かわいそう。
「覚えておりませんけれど……その節は申し訳ないことをいたしました」
わたくしがリリーティアになる以前のことなど知らないが、なんだかいたたまれなくなってつい謝罪してしまう。
『いいんだよ。本当は、優しい子だって思ってたし。たまにね、実際の君にこっそり会いに行ったんだよ。でも、リリーティアは常に誰かと一緒だったし、屋敷の中には入れないから会えなかったけど……。それに、こうしてリリーティアもこっちのこと覚えてくれている。そうだ、最近ことのほか何かを不安に感じて、一人で震えていることが多いようだね。何かあった? 魔界暮らしが嫌になったんじゃないかな?』
わたくしが恐怖を覚えている、ということまで知っている……?
そんなこと、誰にも改まって相談していない。魔王様でさえ知らないはずなのに。
「――あなたいったい……『誰』なんですの? なぜそんなことを知っているのかしら」
『ひどいなあ。大事な友達のことはちゃんと知ってるよ。心配だったからこうして会いに来てるじゃないか』
「はぐらかすのをやめてくださらない? お友達と仰るなら、あなたのお名前や顔くらい、わたくしも知っておくべきではないのかしら? わたくしが記憶喪失であること、そして強い不安を抱えていること、ああ……そうだ、以前にもわたくしに話しかけてくださいましたわね。そのとき【魔導の娘】と、意味まで知っていましたわね。あなた……普通の人ではないのでしょう。いったい何なのです?」
すると、ふむ、と少しばかり納得したような相づちが返ってくる。
『昔ちゃんと教えたのに……まあ、いい。こうして会う時間をぐっと増やしてくれるなら、いろいろまた改めて教えてあげる。でも、一回に一つずつ。もちろん……二人の秘密だから、誰にも教えないで?』
どうかな、と、レト王子の声にも聞こえてくる声音でその人物は言った。
レト王子に似ている……そう感じると、不思議と目の前の人物は……レト王子に見えはじめた。
『悪い話はしてないと思うよ。俺はね、嬉しいんだ。久しぶりにリリーとたくさん……お話できるんだもの』
にっこり微笑む、レト王子と同じ形をした人。
でも、この人はレト王子じゃない――はずだ。
レト王子はこんなことするんだったら、人目もはばからず抱きついてくるような人なのだ。
わざわざ、こんなよく分からない部屋で押し問答するわけがない。
「……その姿を使うの、止めてくださらない? 極めて不愉快ですわ」
『あれ、これを真似ればリリーティアが気に入ると思ったのに。実はたいして好きじゃないんだね』
「彼を『これ』などと呼ばないで」
『…………』
不愉快そうな顔をしたレト王子の体がゆらっと大きく揺らめいて消え、再び目の前にはよく分からない幽霊みたいな何かがたたずんでいる。
「……なるほど。あなたはレト王子でもわたくしのお仲間でもない。それだけは分かりました。だいたい、他者の姿をしなければ、わたくしという『お友達』の前に出られませんの? とんだ恥ずかしがり屋さんですわね」
ふふん、と嘲笑しながら意地悪く言うと、目の前の何かは勢いよくテーブルに手をついた。がしゃんと大きな音を立てながら、衝撃で傾いたカップが宙を舞って……床に落ちて割れてしまうんじゃないかと思ったが、途中で霧散するように消える。
『勝手に……君がボクのことを、全部勝手に忘れてしまったくせにッ……! 勝手に、魔界で……あいつらと……! よりによって……あんなやつが君のそばで笑って暮らしてるなんて許せない!!』
恨めしげに非難する声。これは、はっきりと男性の声で聞こえた。
「……あなた、もしかして男の子でしたの? あんなやつ、とは一体誰の――」
『うるさい!!』
ばちん、と衝撃波のような見えないものが体に当たって――わたくしの身体は後方に吹き飛ぶ。
「痛ッ……!」
思いっきり何かに当たりましたけど、わたくしの身体に傷が残ったらどうしてくれるんですの!?
それに、これ、危害を加えたことに入るんじゃないか!?
キッとその何かを睨んでやろうと思ったが、もうそこには誰もいない。
――そして、フッと明かりすら消えて、何も見えなくなって。
……
…………
「……あら……?」
投げ出される瞬間のふわっとした感じで――目が、覚めた。
きちんとわたくしの部屋の、ベッドの中。
一瞬ほっとしたのに、なぜほっとしたのかが分からない。
起き上がって、身体をペタペタ触ってみる。何も変わったところも、汗でベタベタというわけでもない。
何か怖いような気がしたのに……。
「……??」
何か変な夢を見たような気がするのだけど、綺麗さっぱり何も覚えていない。
落ちるような、グッと重力に引かれるような感覚が最後にあったような。
これも気のせいだろうか……。やけにぱっちりと目が覚めてしまった。
伸びをしながらブランケットを一応めくって、足の先までを確認してみる。
ベッドもわたくしの身体にも、何の異常も無い。
「深く眠りすぎたのかしら……? よくわからないけど、何かがあったわけではないなら……気にしなくて良いかしらね……」
触れると明かりがつく、タッチセンサーのような調合アイテムに手を添えると、ほんのりと灯りがともる。
時間はまだ朝方だ。もう少し眠っていたい気もしたが、二度寝するとだるくなるし、ちょっと散歩でもしながら畑の様子でも見に行こう。
「ん~……っ……、今日も一日、頑張りましょうか」
わたくしは、自分がどんな夢を見ていたのか。
そして今日、大変なことが待ち受けているとはつゆ知らず、元気に起きたのだった。