「――ふむ、リリちゃんはただ魔力が切れただけ……」
魔王様の居室にノックもなく駆け込んできたレト王子を咎めることもなく、魔王様は身体に力の入らないわたくしの身体を膝の上に乗せ、様子を診てくださった。
といっても、手を頭の上にかざし……わたくしの頭頂部から冷たいような魔力か何かが身体の中に流れ込んできた……かと思ったらすぐに消えて、さきの診断結果が言い渡されただけだ。
……あれだけで何かが分かるのだから凄い。
普段どれだけ有用なスキルを使用せず寝ているのだろう。
逆に、もし魔王様がやる気の塊だったら、魔界の復興や地上への侵攻も進んでいたはず。
そうなるとこの乙女ゲームはアリアンヌ側だけで良くなるから、リメイクは誕生しなかったってことになってしまう。
わたくしのやることがなくなってしまっては困るので、やっぱり魔王様はニートで良かったんだ。
「少しここでゆっくりしなさい。水を飲んで少し横になっていたら治るから」
水、というのは魔界の魔力水のこと。
現在は蛇口を捻れば透明のものが出る、エリえもん……じゃなくてエリクのありがたい工事の賜物だ。
「父上、リリーは本当に大丈夫なのでしょうか……どこか身体の具合が悪いとか」
「そんなにあたふたしなくて平気だよ。水持ってきて」
苦笑しながら魔王様が催促すると、レト王子は弾かれたように立ち上がって、水を汲みに部屋を出て行った。
キッチン(仮)で汲めるから、魔王様の居室を出たらすぐ目の前にあるんだけどね。
「……ごめんね、レトゥハルトはこういうことに過敏で」
「……魔王妃様のこと、いえ……ご家族のこと、レト王子が少しだけ教えてくださったのです……だから、幼少時のことが気になっておられるのかと」
すると、魔王様も聞いちゃったんだね、と寂しそうな顔をした。
「大丈夫です。わたくし、寿命以外で死んだりしませんもの」
「――そうだね。人間は短命ということも、ぼくらは忘れていたよ。その中でも、たくさん長生きして貰わないと」
特にレトゥハルトが困るからね、と笑った魔王様。
「ええ……」
そう返事をしつつ、わたくしは……疑問が湧いてしまった。
この世界は……ゲームの中だ。それは大前提として理解している。
かといって世代を繋いで目的を達成するゲームとはジャンルが違うんだから、何百年も何千年も設定されているわけじゃないだろう。
ピュアラバ無印版は学院に入って知識や経験を学んで、魔界の王を倒し魔界との裂け目を封ずる、そして各種エンド……という一連の目的をクリアするのに三年という期日が設定されている。
素質があったとしてもド素人が三年で一流の使い手になって偉業を成し遂げるのも、なんか凄いなと思うのだがそこは気にしてはいけない。
学院に行って三年後、つまり、17歳で学院に入るから……20歳か。
もし――……全てがうまくいってもいかなくても、この世界の終わりがゲーム期間内最後の日だ、って決まっていたら……?
そのときはわたくしもみんなも、この魔界もどうなってしまうのだろう。
強制終了なのか、最後の日を延々と行うのか、それとも、その先があるのか……。
――わからない。
……様々なゲーム機で販売されたが、無印版 (ピュアラバ) はストーリーDLCもファンディスクもないんだもの。リメイクなんか発売されたばかりだ。続きなんてあるわけない。
「――……リリちゃん……?」
わたくしの精神の揺らぎを感じたのか、魔王様が優しく声を掛けてくれる。
「大丈夫です……ちょっと、不安を感じただけです」
その不安は『ちょっと』じゃなくて、ずっと考えていたら怖くてたまらなくなりそうな『強い』不安だ。
「……わたくし、魔界が好きです。まだ何もないけど、大好きです」
「本当に何もないところからここまで育ててくれたのは、リリちゃんや彼らのお陰だよ。ありがとう。感謝してもしきれないよ」
魔王様のお膝の上で賛辞を受ける……という栄誉ある特等席なのに、わたくしは……将来のことを考えるとだんだん悲しくなって、すすり泣きをはじめてしまった。
「まお……うっ、さまぁ……。わたくし、ずっとここに居たいんですっ……皆と離れたくありませんのぉ……延々スローライフしたいぃ……」
「そこは『レトゥハルトと離れたくない』って言ってあげてほしいんだけど、悲しいかな『皆』に含まれてるっぽいなあ……それにリリちゃんの事を誰も追い出したりしないから大丈夫だよ。ずっと好きなだけいて良いんだ。スローライフもいくらだってしなさい」
頭を撫でられても、一度考えてしまった終わりのことを思うと気分は落ち着かない。
そんなことを今から考えてもしょうがない。終わりがあるなら悔いなく日常を送らないと……いけないのに、どうしようもなく恐ろしい。
「だって、ゲーム内期日が来てしまったら――」
その時居室の扉が開いて、水差しを二つも抱えてきたレト王子が小走りでやってきた。
「ちょっとレトゥハルト、床に水零れてるよ……ゆっくり歩いてきなさい」
「も、申し訳ありません……父上、なぜリリーは泣いているのでしょうか?」
「レトゥハルトが居なくなったから、とても寂しがって泣いてしまったんだよ」
魔王様はびっくりするようなことをさらっと口にした。
そんなあからさまな嘘、誰も引っかからないよ。
「……そ、そうなんだ……ほら、こうして水を汲んできただけだよ。今日は一緒に居るから……もう泣かないで?」
……嬉しそうな顔して引っかかってる。
男女ともに魅了できる、極上の蕩けるような微笑みを久しぶりに拝見したが、知能あるものを全て無力化し、スライムに変えるんじゃないかと思うほどの浄化力がある。
「リリーが父上の膝にばかり居るのはずるいよ。せっかくだし、俺の膝の上でも良いでしょう?」
せっかくだし、って……そんなおねだりされても、わたくしはぬいぐるみではない。
魔力は枯渇してゼロだというのに、顔の良い親子の間に挟まれては、精神の回復が追いつかない。
「……良いか悪いかはちょっと、わかりませんわ……ただ……お願いが」
「なあに?」
グラスに水を注ぎながら、レト王子はわたくしの言葉を優しく促す。
言うの、わがままだって思われたりエロガキって思われたりしなければ良いんだけど……気持ちが弱ってるから、たまには……許してもらえないかな……?
「ちょっと不安が収まらない、ので、レト王子に強く……ぎゅって、して……いただきたいです……ッ」
「なっ……?」
わたくしが恥ずかしさを堪えながらそうお願いすると、レト王子の手からグラスが落ち、トレイの上に水が盛大にぶちまけられた。
水差しのほうが落ちなくて良かった……けれど、レト王子の水差しを持つ手が細かく震えている。
どうしましょう、わたくしが身の程もわきまえぬお願いを無茶振りしたから、レト王子の怒りが最高潮なのかもしれない。
「あの……無理なら、忘れてくださいませ……」
「…………」
レト王子は、零れた水の上に手をかざし、どこかに消失させる。
布巾とかで拭くわけじゃないのか、と謎の感想を抱いていたところ、魔王様がわたくしをお姫様抱っこして立ち上がった。
「――レトゥハルトッ!!」
「は、はいっ……!」
魔王様の厳しい声に、レト王子が弾かれたように顔をあげた。
「リリちゃんがぎゅってしてほしいと渇望してるんだ、水なんかどうでも良いから、ちゃんと目の前でぎゅってしなさい! 押し潰す勢いで!」
「……いえ、もう結構で――」「恥ずかしがらなくて良いから!」
バッとレト王子の前に差し出されるわたくし。
それを赤い顔でじっと見つめたレト王子は、自分の手のひらを服で拭うと、壊れ物でも扱うかの如く、そーっと手を伸ばして受け取る。
「赤ちゃんではございませんので、そのように慎重にされても……困るのですが」
「…………」
レト王子は床に座ると、わたくしを膝の上に置いて、要望通りぎゅっと抱きしめてくれた。
――……魔王様の眼前で。
その魔王様も、なんだか晴れやかな笑みでこちらを見守ってくださっている。
「…………ど、どうかな」
「わかりません……」
イメージしていた感じとは違う。
……二人きりになって見つめ合い、そっと抱きしめて『大丈夫だから』と囁いてもらう……とか、砂糖がざばざば口から吐き出るくらい甘い言葉とか、そーいうスチルイベントみたいにやってほしかった。
こんな、相手の親御さんに見守られながら抱きしめられているという、甘い雰囲気に一番あってはならないことをされているのだから、どうかと問われても分かるわけがない。
ちょっとだけ、怖い未来を忘れさせて欲しいという……わたくしの甘えたい感情が急速に冷めた。不安も宇宙にブッ飛んでいったわ。ある意味想像以上に忘れ去った。
「……おかげでかなり冷静になりました。ありがとうございます」
「そう? 俺はもうちょっと、こうしていたいな」
「いけません。わたくしが限界です」
魔王様にガン見されていて、何をどうしてあまあまな雰囲気になれというのか。
かといって、じゃあ今からどちらかの部屋に行って続きをします、とかいう、えちえちな感じも絶対だめだ。
「……やっと甘えてくれたと思ったら、もう照れちゃったんだね」
どこをどう感じたらそういう解釈になるんだよ。
たまに、レト王子は情緒が欠落していると思うときがある。
至極残念そうにわたくしから手を離すと、再び水を新しいグラスに注いで手渡してくれた。
「抱擁で元気が出たみたいで良かった」
「ええ。いろいろな懸念もありましたが結果的に晴れやかですので、過程はどうあれ感謝の念しかございません」
「喜んで貰ってる、はずなのに……何か冷たい壁を感じる気がするんだけど……」
複雑そうな表情を浮かべるレト王子だが、その推察は正しい。
しかしどうしてわたくしの言葉が刺々しいのか、までは――残念ながらご理解頂けないようだ。
「――ドラゴン達のことですが、本当に魔力だけでしばらくは大丈夫なのでしょうか」
わたくしが水を口にしながらそう尋ねると、魔王様が天井を見上げながら『ドラゴンかあ』と、弾んだ声を上げた。
「なんかいっぱい居るな~と思ったんだよ。でも、まだ子供のドラゴンだね。これは……純血種かな? これなら体格が立派になるまで、魔力を吸うだけで充分だよ」
「魔王様がたは図鑑がなくとも、魔族のことはお分かりですのね」
「食べ物とか、大まかな生育、環境の好みだけは分かるくらいだよ」
詳しく書いてある書籍もあるだろうから、ほんとに知っていることは少ないよと仰るが、素で知っているなら充分ポケット図鑑くらいの充実さがあるのでは?
「そうだ、今日の夜からは風の精霊に音を遮る結界を張ってもらおう」
レト王子が名案を思いついたように言うと、魔王様も大仰に頷く。
「いや、結界は勉強として『後』のほうが良いかな。まず家畜には最優先で消音と結界を張ってあげて。死ぬかもしれない」
「死ぬ……? 今までしなかったのに、どうして結界を……?」
「ドラゴンたちが放り出された環境にとりあえず落ち着いてきた頃……数時間すれば分かるよ」