【悪役令嬢がリメイク版で敵側のヒロインに昇格したのに、恋愛どころじゃないんですけど!/63話】


 セレスくんとはあのままよそよそしい態度で(親しげに会話をせず、会釈程度しかしていないという意味)別れ、わたくしたちは魔界に戻る。


 なんだか、いろんなところですごく疲れた……。


 ため息を吐いたわたくしを見ていたレト王子が『部屋で休んでて良いよ』と仰ったので、お言葉に甘えて部屋に戻る。


 ベッドに身を横たわるとすぐ、急な眠気が襲ってきて……わたくしの意識はそのまま深く沈んでいった。






……


…………。


――薄暗い。




 綿菓子のように、ふわっとした――けれど数メートル先くらいまでしか視認できないくらい、室内に濃い霧が立ちこめている。


 視界がフッと暗くなった。


 何かと思ってすぐ横にある窓の外に目を向ければ、巨大な魚の胴が……横切り、またほんのりと明るさを取り戻す。



 どうしてこんなところに魚が――?



 外を魚が泳ぐのに驚いている場合ではなかった。水は至る所にあったのだ。


 部屋の柱だと思ったものは水で出来ており、固まっているわけではなく、水が天井から流れ続けている。

 その中を小魚たちが尾を揺らしながらちらちらと泳いでいるという……幻想的な部屋。

 柱が柱として機能していないのではないかという不安すら覚える。


 はたしてここが水の中なのか、室内に浸水している最中なのかは分からない。


 わたくしは椅子に腰掛け、水色のコーヒーカップを両手で包むように持ったまま……顔の見えない誰かと向かい合って茶を飲んでいる。



 その人とは会ったことがあるような、無いような。



 しかし……不思議と『親しい人』という感覚はあるのに、目を凝らすと――それが誰なのか、途端に分からなくなってしまうのだ。


 思い出そうとしても顔も名前も全員一致しない。


『――疲れちゃったでしょう? 今日は大変だったからね』


 その人が話しかけてきた。


 声も男性か女性か、わからない。

 言葉遣いも誰かに似ているけれど――全く誰にも似ていない。


 つまり、目の前の人の姿も声もしゃべり方すら、ヒントになり得ないのだ。


「大丈夫ですわ。わたくし若いので」

『ふふっ、そっか』

 わたくしたちは楽しくお茶をしていた――のだろうか。


 いったい、どうしてこんなところにいるのだろう。と、ぼんやり考え始めたとき。


『魔導の娘という宿命のせいで、リリーティアとして生きられない……』

 そんなもののせいで辛いでしょう、と……その人は悲しげに呟いた。


「いいえ。わたくしは……これでいい。そう自ら決めたのです」

『自分が人間や魔族の恨みを買って、命を落とすかもしれないのに?』


 目の前の誰かが呟き、カップをソーサーに戻す。

 かちゃん、と妙にリアルな音が響いた。


『もうやめると、そう言ってくれるなら――』

「――お言葉ですけれど。わたくしは魔界のために尽力すると決めたのです。死ぬのは天寿を全うするまであり得ませんわ。妨害や口出しをなさるなら、どうぞお帰りになって」


 なんでしたらわたくしが帰ります、と席を立とうとすると、待って、と引き留められた。



『ねえ……あの広大な魔界を豊かに出来ると、本当に思っているの?』

「わたくしには仲間がいる。一緒なら成し遂げられると……そう信じています」

『今まで出来なかったのに?』

「ええ、だとしても『今から』またやってみなくてはわかりませんわ。あなたがどなたか存じませんけれど、わたくしのことがそんなに心配でしたら、協力してくださってもよろしいのですよ? ……というか、本当にどなたです? お顔を見せないなんて恥ずかしがり屋さんですの?」

『遠慮しておく…………魔界にも人間にも……本当は君にだって興味ないんだから』


 いろいろなものがどうだっていいんだよ、と怒ったような声で吐き捨て、声の主は消える。


 部屋が徐々に暗くなって――わたくしひとりが、その世界に取り残されて。



 誰もいないというのが無性に、わたくしを悲しい気持ちにさせた。





「ん……?」

 そのままゆっくり目を覚まし……周囲を見渡す。



――自分の部屋。


 どうやら、わたくしは少しの間眠っていたようだ。



 随分奇妙な夢だった。


 ただの夢なのに今経験したみたいなリアリティがある。



 起き抜けなので、まだ脳が現実と夢の区別が付かなくて混乱しているのかしら……と、起き上がった体勢のまま、たかが夢のことをボーッと考えていると、とんとん、と扉が叩かれる。


「……はい?」

「俺だ。そろそろ食事でも摂らないか?」

 レト王子の声だ。


 ささっと髪を手ぐしで整えてから扉を開くと、トレイに夕食であろうものを携えたレト王子がいて、優しく微笑んでいる。


「どうぞ……」

 わたくしに促されるまま、レト王子は部屋のあちこちへ視線を走らせる。

 そしてなにごとか呟くと、目に痛くない程度の光量に抑えた明かりをつけた。


「二時間くらい前に夕食だって呼びに来たんだけど、寝ていたみたいだったから。そろそろ起こした方がいいだろうって、温め直してもらったんだ」


 テーブルの上にパンやサラダ、メインが全て盛られたワンプレートを置かれた。

 エリク一人で作ったのかもしれないけど……帰ってきてからすぐご飯の支度では、負担になってしまっただろう。


「わたくしったら随分眠っていたのですね……エリクに食事当番をお任せしてしまって……」

「……今日は、何もせずくつろいでいいよ」

 向かい合ってレト王子と座る。彼は自分のマグカップを持ってきたようだった。


 最近よくこうしてレト王子と一緒に過ごすことが多くなってきたような……。



 黙々と食事を摂っていると、視線を感じた。

 ちらと視線を向けると、頬杖をつきながら優しい眼差しでわたくしを見るレト王子と目が合う。



――や、やだな。大きく口を開けて食べてるところとか……うわ、ずっと見てたのかな……恥ずかしいな……。



「……あ、見られてると食べづらい?」

「え、いえ、うーん……そういうのは今更、って気も致しますわね……」

 本当はすっごく恥ずかしかった。


「ふふっ、それもそうだね」


……なんか、こんな笑い声も夢で聞いたような……じゃああれはレト王子……じゃ、ないような、そうっぽいような……うーん、ちょっとよく思い出せない……。



「大丈夫……今日が悲しくても、明日には全部過去になってるから」

 夢のことを思い出そうと難しい顔をしているのが、苦悶の表情に受け取られたようだ。


 レト王子なりにわたくしを励まそうとしているのだろう。

 こうして、食事まで持って部屋を訪ねてきて……一生懸命言葉を選んでいる。


「……リリーは【魔導の娘】になったこと、後悔してない……わけは、ないよな……」



……やっぱり夢で、こういうシーンがあったような気がする。

 さてはアレ、予知夢かしら。わたくしの新たな能力だったりしないかしら。


「まさか。そんなことしておりません。わたくしの意思で決めたことです」

 んで、この後は自分が死ぬかもしれないのに、って心配そうに聞かれるんだな。



「……俺は、アリアンヌが戦乙女だと思うんだ」

「……えっ?」

 あれっ、アリアンヌの話になってるし。急に変なこと言い始めたぞ。



「俺はあの日……カフェで彼女が話しかけてきただろう? 彼女を見たとき、心がザワザワした。リリーのときとは違う……彼女は温かいけれど、異質なものであるという胸騒ぎがあったんだ。それがなんなのか分からなかった。だけど、父上の話やセレスの事を聞いて、もしかしたらって、やっと判った……」

「……あ、え、ええ……そうなの、ですか……」

 実際アリアンヌ=戦乙女って言い当ててるから訂正することも出来かねる。



「……驚かないんだな」

「いえ、今日はなんだか……急なことだらけでしたので」

「それもそうだね」

 理解がまだ追いついていないということにしておこう……いや、それでいいのかな……。


「わたくしを慰めに来てくださったのでしょうか」

「……ううん……リリーと一緒にお茶を飲みたいと思っただけだよ」


 くぅ……気を遣わせまいとして、かわいい……。


 あ、なんか、あぶない……ちょっときゅんときた……。



「……レト王子、傷心の異性に優しくするのはお薦め致しませんよ?」

「えぇっ?!」

「こういうのって、女の隙につけいるための常套手段ですのよ。ああ、でも……そうですね、傷に優しさがしみこんでいくので、これは相当に効くテクニックなのでしょう」

 胸を押さえて、ほぅっと切なげに聞こえるため息を漏らすと、違うよとレト王子はしどろもどろに答える。


「そういう、やましいつもりで来たんじゃないから……!」

「わかっています。そういう手段もある、というだけです」

 それに、わたくし失恋したわけじゃないし。


「もう……すぐそうやってからかうんだから……」

 レト王子も落ち着かない気分なのか、紅茶を口に運び、渋いなと呟いた。


「あ、リリーのぶんも淹れたけど、喉が痛むかもしれないし、無理に飲まなくて良いからな?」

「いえ、美味しいですよ。レト王子が淹れてくれたのだから」

 そうしてカップを傾けると、もう、と彼は困った様子で息を吐いた。


「……リリーのほうがよほど、男の喜びそうなことばっかりする」

「まあっ」

 失礼な。わたくしは乙女ゲー愛好家だったが、恋愛に疎いのだ。


「わたくしがこの年齢で恋愛の駆け引きやらなんたるかができているなら、クリフ王子などはわたくしを忘れることなんか出来ないでしょうし、ジャンのような危険な男も問題なくわたくしを大好きになっているはずですわよ」


「……さっきを見る限りでは、割と……いや、考えるのは止めておこうかな」

「それがよろしいです。あり得ないことを考えるのは脳の無駄遣いですわ」

「……なんで鈍いのかな……」


 重い息を吐くと、渋いお茶のせいか、眉間に皺を寄せるレト王子。

 なにか懐疑的な呟きが漏れた気がしたが、渋いのかな、の聞き間違えだろう。



「……後悔はしていないんですが、今日のことでいろいろ思うことはございます」

 ぽつりと漏らした言葉に、レト王子は顔を上げた。



「……わたくし、リリーティア・ローレンシュタインとしての記憶は全くありませんの。クリフ王子が仰るように、わがままだとか……どんな振る舞いをして方々に迷惑をおかけしたのかすら、申し訳ないことに……ほんとうにわかりません。でも、もし……わたくしがあの辺境であの日、多少の記憶の混濁があっても、リリーティアとしてうまく機能していたら……レト王子にどのような振る舞いをし、いずれ面会に来るクリフ王子にどのような態度を見せていたのかしら、とふと考えまして」


「…………」

「きっと、魔導の娘やレト王子のことなど、受け入れられなかったでしょう。そう思うと、わたくしはリリーティアとして暮らせずに良かったのだと思います」


「時折、リリーは不思議なことを言う。俺がレトであっても『レトゥハルト』という名のように、リリーは……『リリーティア』という名前なのだろう?」


 リリーティアという本名は、もういらない。

 それを人間世界が、というかローレンシュタイン家が許さないかもしれないが。


「その名前と、わたくしの妙なこだわりは棄てます。魔導の娘、リリーとして生きたいのです。過去の名前はいりません」

「……いいのか、そんな……」


 俺のせいで、と、レト王子は呟いた。

 それは苦しそうであり――クリフ王子に言ったように、わたくしを連れ去ったという罪の意識があるせいかもしれない。


「――……レト王子。信じられないと思いますが、あなただけにお話ししますわ。わたくし……ところどころ、この世界で起こることを識っているのです。あと数年すれば、王都に魔物と戦う者を養成するための学院が建てられます。人間は、それから二年後に戦乙女を擁して魔界の裂け目を封じに来るはずです」


「――……!」

「……戦乙女の名は、アリアンヌ。そう。レト王子が仰ったように……わたくしは、その存在と、忌むべき名をとうに識っていたのです」


 ピュアラバのリリーティアお嬢様死亡フラグ、黒い獣ことレト王子のことは伏せた。


 そんなことをうっかり口走ってしまったら、レト王子は自分を遠ざけるだろうし、絶対に気に病んでしまう。それに今回はそんなことしないはずだから。



「だから、アリアンヌという脅威になる存在には関わりたくなかった。でも、メルヴィさんがアリアンヌだとは――知らなかった。似た特徴はあっても、住んでいるところは違う。だから別人だと思った……」

「……いいんだ。リリーを責めたりしない」

 優しく語りかけてくるレト王子の声。目頭が熱くなる。


「――……ほんとに、仲良くなれたらいいな、って思ってました。でも、最初から無理だった。あの子は戦乙女で、わたくしは魔導の娘。どうあってもっ、仲良くなれない……運命だった」

 ぼろぼろと涙が零れた。


 悔しいのか悲しいのか、わからないけれど、胸が苦しい。


「どうして友達になれないか、ですって? そんなもの、こういう関係だからに決まっているからじゃありませんか……!」


 ぎゅっと拳を握って、湧き上がる様々な感情を堪える。


 もしも互いに立場が違うならきっと…………ああ、でも、アリアンヌのぶっ飛んだ思考についていけたかは難しいし、好きになった奴を取られる可能性もあるなら、なんかもうこれで良かったかも……。


 レト王子はわたくしの背をそっと労るようにさすって、いいんだよ、と呟く。

「リリー……悲しいときはたくさん泣いて良いんだ」

「ううっ……レト王子……ごめ、なさ……」


 わたくしの心の中でアリアンヌへの不満が展開されつつあったから、少し前までの素直な気持ちが薄れつつあるっていうのに……ちょっと優しい言葉を掛けられたら泣けてくるなんて、自分でもチョロすぎだと思うわ……。


 レト王子はわたくしの肩に手を置いて、自分のほうへ抱き寄せると、頭を撫でる。

 わたくしとは違う、少しだけ甘いような匂いが……安心するけどどこか……落ち着かない。


「……リリーはまだ少女だ。こんなに細くて、こんなにか弱い。それなのに、随分と辛い思いをさせた。俺の前だけでいいから、無理はしないで素直になって欲しい」


 わたくしのことを気に掛けるその言葉はとても嬉しい……が、わたくしは抱きしめられているのだ。平たく言えば薄暗い室内で年頃の男女が抱き合っているのだ。



 なんかレト王子ってどさくさに紛れて、たまに大胆なことをするよね。



……そして、彼が一生懸命『頼って欲しい』というキモチを伝えようとするのと、抱擁のせいでどきどきしているのも、隠しようもなく伝わってくるので……なんだかわたくしまで、どうして良いか分からずドキドキしてきた。



「俺は、リリーに頼られるのなら嬉しいし、気にしないから……な?」

 わたくしの涙を拭いながら、レト王子は視線をあちこちに彷徨わせつつそう言った。

 顔も紅潮している。


――これは、レト王子もいっぱいいっぱいなんだな……。


 そう思うと、急に可愛いなと思って笑ってしまった。


「な……なんで、笑って……」

「レト王子って、やっぱり誰にでも優しい。とても素敵ですわよ」

 すると――レト王子は真っ赤になってわたくしから離れた。


「まっ……、またすぐそうやって、俺をからかって……!! こんなことはリリーにしかしてないからね!?」

「…………えっ、あの」

 急に怒られた。


 わたくし、変な意味で言ったわけではないのだが……。


「わたくし何か変なことを言いまして?」

「変って言うか……だって、それって……やっぱり全然、リリーには……――もう知らない!」


 急に怒りだしたレト王子は、そのまま転移でどこかに行ってしまった。



 文字通り目の前から消えたのだ。


 取り残されたのは、わたくしと薄暗い室内。そしてティーセット。



 細部に差異があっても――ほぼ夢と同じ展開である。



「……やはり、予知夢なのでは……?」


 これは頑張ればもっといろいろなことを予知できたりしないかしら。



 それにしても。


 やっぱり全然、リリーには……って、わたくしには全然何かが伝わっていないと言いたかったようなのだが……それは一体、なんだったのだろう……。


 翌日、やっぱりわたくしに対して怒っているレト王子。

 彼にはジャンとエリクの温かい視線が向けられ……わたくしには冷たい男子達の視線が向けられるのだが、誰も説明はしてくれないのだった。



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こめんと

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