魔界に戻って――……魔王様に帰還のご挨拶をするため居室を訪れようとしたのだが、扉を僅かに開けた瞬間、黒いオーラが隙間からモファ~ッと放出された。
「……?!」
 ちらっと奥に見えた魔王様は、既にベッドから出ていて……背筋を伸ばして姿勢を正し、わたくしが入ってくるのを静かに待っているようだ。
 いや、レト王子のことかもしれない。わたくしと決まったわけじゃない……多分……。
 なんだあれは。サラリーマンの旦那さんが酒飲んで浮かれて帰ってきたら、奥さんが静かに怒ってるみたいなああいう感じか??
 これは完全に『リリちゃん??』という仕置きモード……の上位互換に入っている。
――これはだめだ。問答無用でバッドエンドだ。
 開きかけた扉を閉め、深呼吸を二度繰り返す。
「何してんだ? 早く開けろ」
 ジャンが急かしてきたが、知らないとはいえ……この男は命が惜しくないようだ。
 場合によっては貴様が次のドーナツになるんだぞ。
「だめ……ちょっとお待ちになって。あの、今までお世話になったのは忘れませんわ」
「何わけわかんねぇこと言ってんだ。これからだろーが」
「リリー、早く父上に面会をしよう。彼らを早く紹介したい」
 レト王子も爽やかな笑顔で恐ろしいことを仰る。
――ああ、そうだ。わたくしはテシュトでジャンの事を想像していた瞬間から、レト王子に目をつけられていたのだった。
 レト王子はお気持ちに添えないわたくしを、早く処刑したいのかな……。
「うっ……、レト王子、今後一層頑張ってくださいませね……」
「……なんでそんなに泣きそうな顔をしているんだ?」
 そんなやり取りをしていると、扉がひとりでにギ・ギ・ギ……と開いていく。
 ひえっ……魔王様がわたくしを殺すために、能力の無駄遣いを……!
 少しずつ開いていく玉座の間(という居室)から、まるでドライアイスのスモーク技術みたいなもくもくとした黒いオーラが溢れ出てきているというのに、エリクもジャンも気がついていない様子。
「父上はいかがされたのだ? 今日は随分……力を強く感じるな」
 珍しいこともあるものだ、とレト王子はいつものようにスタスタ中へと入っていく。
 あああ、だめだ。イベント始まっちゃった……。
「リリちゃん。早くおいで?」
 ああ、魔王様は大層お怒りでいらっしゃる。
 わたくしはぶるぶる震えながら、リリちゃん断罪イベント(レトゥハルト悲しませたら許さないよイベントと勝手に名付ける)の会場にやってきた。
 魔王様の前にジャンとエリク共々座り、帰還致しましたと……わたくしは土下座する。
 やれと命じられたわけではない。なんか、こうしなければいけない気がするからだ。
「おかえり。ぼくね、リリちゃん帰ってくるの、ずーっと、ずぅっと待ってて……待ちくたびれたんだぁ……ふふ、帰ってきてくれて良かった」
 出た、病んだ彼女みたいな魔王様。
 レト王子が絡むとこうなっちゃうんだけど、なんだか最近こればっかり見ている気がする。
「ねーぇ、リリちゃん。テシュトは楽しかった?」
「え、えーっとですね……」「考えなくて良いから『はい』か『いいえ』で答えて?」
 怖すぎる。
「いいえ、そうでも……なかったです……」
「あ、そうなの? なぁんだ……」
 拍子抜けしたような魔王様の声に、若干安堵してしまったわたくしは思わず顔を上げて……固まった。
 鼻先が触れあいそうな距離に、魔王様の顔があったから――である。
 わたくしが顔を上げるまでのごく僅かな間に、物音一つ立てず、瞬時に距離を詰めたということだ。
「――つまらない場所に行って帰ってきたらさぁ……どうして男が二人増えてるの?? おかしいよねぇ? なんで連れてきたのかなあ……?」
「ひっ……?!」
 驚愕して何も言えないわたくしの頬を、魔王様はそっと掌で包む込む。
 ひんやりしていて冷たい。
 引きつった声が出たのは、けっして寒かったから、だけではない。
 ああ、これ死んだ――と強く感じたからだ。
「リリちゃん。魔王言ったよね……? 他の男を惑わせちゃダメだよって」
「あ、あのっ、彼らはわたくしとレト王子の仲間ですの……! 魔界のために尽力してくださるのですわ」
「仲間ァ……? レトゥハルト、本当かな?」
 わたくしの頬を優しく……しかしガッチリとホールドしたまま、魔王様は息子さんに言質を取る。目が怖い。
「友達……だと嬉しいが、リリーの言うことは間違ってない」
 こういうことは慣れているのか、それともレト王子には何らかのフィルタがかかっているのか、わたくしが魔王様に捕獲されているというのに動じた様子も見せず、彼は頷く。
 これ、もしレト王子が『違うよ。リリーが俺に当てつけるためだよ』とか言ったら、わたくしの頭は熟れたトマトのように、魔王様からいとも簡単に握り潰されてしまうのだろうか……。
「ねぇレトゥハルト、今日は嫌なことか嬉しいことあった?」
「嫌なことは、リリーがジャンをずっと見ていたことで――」
「誰? 誰ジャンて!」
「おれだけど」
「貴様か……!」
 まだレト王子が喋っている途中なのに、ジャンを見た魔王様……の爪がほっぺたにググッと食い込んできた。いだだだ、痛い。
 やめて、トマトはいや……!
 どうか、顔は止めて! リリーティアお嬢様の素敵なお顔に傷が残ったら大変じゃないですか!
 緊急事態だというのに、レト王子はその光景を見ながらふふっと笑った。
 なにがおかしいんだ。こっちは必死だぞ。
「――嬉しかったことは、リリーが俺と……あ、これはまだ秘密だな」
 多分誤解しっぱなしの『あの話』をしているのだと思うが、またあのとろけるデレ顔を見せる。うう、かっわいいなぁ……もう……。
「えっ、なに? なんなの? レトゥハルト、リリちゃんと凄く良いことがあったの??」
「うん。父上でも内緒」
 自分の口元に人差し指を当てて、教えないよというポーズを取る無自覚系あざとさ。
 推しが最高にかわいい。
 命が危ないときだというのに、こんな可愛いと思える光景が最後に見られて良かった。
 そんな『リリちゃん断罪イベント』の隠しスチル(?)に満足し、感謝しながら目を閉じよう――とすると、魔王様はわたくしの顔から手を離して、ふらふらとレト王子の所に歩いて行く。
「良かったねえ……魔王に内緒にしなくちゃいけないことが、二人の間に出来てしまったんだね……」
 とニコニコ微笑んでレト王子の頭を撫でている。
 撫でられている方も、そうだといってなすがままである。
「なんだァ? あの親子、いつもああなのか?」
 ジャンが気味悪そうに魔王様達を見やりながらわたくしに聞き、エリクも嫌悪に近い表情を向けていた。
 飄々としているジャンはともかく、親なんか興味もねーよ的なエリクにとって、この光景は事故とか惨状といっても良いくらいだろう。
 わたくしは魔王様の攻撃に耐えて無事だったっぽい頬をさすりながら、魔界で住みたいという仲間です、とジャンとエリクの素性を簡素に紹介した。
「ああそうなのぉ~。住むところや食べ物は勝手になんとかしてくれたら良いから~……ね~レトゥハルト?」
「は、はぁ……しかし……」
「――それでは、二人を案内してきますわね」
「は~い」
 魔王様はどうやら彼らのことよりレト王子と親睦を深めたいらしいので、ここはレト王子を犠牲……じゃない、親子だんらんして頂いて邪魔者であるわたくしたちはとっとと出よう。
 ジャンとエリクの背を押し、わたくしは居室から出て扉を閉めると、生きている事への感謝と、疲労から大きなため息を吐いてへたり込んでしまった。
「…………あれ……いえ、あの御方が魔王様です。わたくし、レト王子を悲しませると……魔王様からあのようなお叱りを受けるので、いつか首と胴が離れてしまうのではと感じ、生きた心地が致しません」
「息子に甘そうだって事は分かったな。ご苦労さん」
 ジャンは興味がなさそうだったが、わたくしの苦労もこれで判ってくれたようだ。一方、エリクは大変ですねという軽い言葉で濁すに留めていた。