「……え?」
カップを持ち上げたままの姿勢で、わたくしは飛び込んできたものを見つめると……黒いものが動いて、こちらを見た……なんと、生き物だった。
金色に輝く目――は、魔物の証。
視線がかち合うと、わたくしへ低く唸って威嚇しながら、漆黒の獣がくるりと姿勢を入れ替える。
「あ……」
心臓がドキリと高鳴る。
いっておくけど、これは一目惚れとかではなく、恐怖で心臓が縮こまったのよ。
黒い、ふさふさとしたたてがみ――こいつを見間違えるわけはない。
黒い獣は無印版でリリーティアお嬢様をその爪で切り裂いたヤツだ。
獅子にも似たそれが、わたくしに一歩踏み出す。
つまり突然の死亡フラグである。
ちょっと……どういうわけ? わたくし、学院に通う前にいきなり死ぬの?
「というか、魔物がどうして――こんなところに出るんですの……!」
あと、少なくとも二年は平穏ではなかったか。
「【魔導の娘】……ようやく見つけたぞ……」
なんと、獣が喋った。
「ま、どう……? なに、それ……」
聞いたこともない単語……いや、なんかパッケージに載ってた……。
そうだ、サブタイ。
あれの【魔導の娘】とは……リリーティアお嬢様のことだったのか!
混乱しつつも、リリーティアお嬢様のライバルキャラとしての地位昇格に内心喜ぶわたくしだったが、この黒い獅子はわたくしに近づいて前足を踏みならす。
すると、わたくしの足下には複雑な文様の魔法陣が形成され、紫に輝き始めるではないか。
「なっ……、なんですの、これ!?」
術が発動してしまったので身動きもとれず、わたくしは戸惑うことしか出来ない。
その危機を感じ取ったのか、部屋の扉が勢いよく開けられた。
通常ならノックもするだろうが、突然部屋が壊れるくらいの(実際壁には穴が空いた)轟音がしたのだ。
それは誰だってただ事では無いと感じたろう。
よかった、助かるかも……!
「助け……」「お嬢さ――……きゃあああぁぁぁ!」
何事かと血相変えてやってきたメイドさんが、わたくしと獣を見て恐怖の叫びを上げた。
その絹を裂くような悲鳴に、黒い獣は神経を尖らせ、身を低くして唸る。
「魔物!! お嬢様が魔物を操って……!」
「ちょっ、違……!」
――大変な誤解が生まれた。
確かに今の状況では、わたくしが術を展開しているように見えなくもない。
「お待ちなさい! 魔物を操るなど、そんなことできるわけが――!」
弁解を試みたが、だんだん魔法陣の光は強まり、わたくしの意識はゆっくりと暗い闇に落ちていく。あ、これ、死ぬのかな。
「お嬢様……!」
メイドが叫ぶ声を聞きながら、わたくしは意識を手放した。
……目を開けたとき、わたくしは薄暗い室内に寝かされていた。
バニラのように甘ったるいような、鼻の奥にとどまる濃厚な香りが室内に満ちている。
……ここは……どこ?
上半身を起こしながら、室内を見渡してみる。
冷たい黒石の床も、白い煙をもわもわと吐いている香炉も、わたくしが知っているものではない。
つまり、わたくしの家でもない……ということは、死んだわけでも元の世界(便宜上前世ってことにした方が良いかしらね)に戻ってきたわけでもないようだ。
部屋の広さは薄暗くてよく見えないけど、だいたい十畳ほど。
狭くはないけれど、ぎっしり本が入った棚や魔法の道具と思われる短剣や水晶などの道具も置かれているので、広いといえるほどでもない。
そして、正面には木製の扉。
扉は鍵が開いているのか確認しようと立ち上がったが、じゃら、と足下から金属音が鳴る。
自分の足下を見てみると、足かせがはめられていた。
脱走防止か、ボーリング玉くらいの大きさの鉄球までついている。
試しに持ってみたが、とても重い。
一つならまだなんとかなりそうだったのに、足かせは両足につけられているから、二つも持って移動する事は出来ない。
引きずるにもかなり体力を要する。
鉄球を片足ずつ足の裏で押しながら、お尻をついたままずるずると進んで扉の前にやってきたものの――扉は当たり前のように施錠されている。
「それもそうよね……」
いっそのこと、この鉄球を扉に放り投げ続けたら壊れるんじゃないか。
そんなアイデアが頭をよぎったが、跳ね返り方が悪いと、わたくしの足に落ちて骨を粉砕しかねない。
鍵穴もこちら側にない。窓もない。もう打つ手なし。
「あーあ……」
諦めてその場に座り込むと、やるせなさに大きく息を吐いた。
一体これは……どういう状況なのか。
少なくとも、わたくしが逃げられないようにしてあるということだけは分かる。
部屋の感じから、魔法に関わる者の住処だろうか。
そういえば、あの魔法陣……わたくしをどこの誰の家に閉じ込めたのかしら。
「……【魔導の娘】とかわたくしに言ってたような……」
リメイクのサブタイは『戦乙女と魔道の娘』だ。
無印でアリアンヌは途中から戦乙女という二つ名でも呼ばれていた。
で、わたくしが魔導の娘なら、サブタイはアリアンヌとわたくしを指している。
前作でリリーティアお嬢様にそんな設定はない。
リメイクで設定や立ち位置に大幅な改訂があったとするなら、リメイク未プレイなわたくしの知識はほぼ――役に立たない。
「どうしよう……」
バッドエンドに繋がるのは嫌だ。
なんとかしないと……っていうか、なんとか……って、何も分からないわたくしに何が出来るっていうの?
絶望感が胸にこみ上げてきて、うっすら涙が浮かんできてしまう。
悄然とするしかないわたくしの耳に、廊下の向こう側から足音が近づいてくるのが聞こえた。