【魔界で従者を手に入れました/53話】

この居間には誰もいなくなった。

ルカさんも、ヴィルフリートも、クライヴさんも。

みんな、僕に愛想を尽かしたようだ。


僕は完全に一人きりになってしまった。

部屋の中はとても静かで、誰の温もりも感じない。

これで、何も思い残すこともない――……そう感じ、乾いた笑いが口から漏れた。

「僕は、ここで生きるべきではなかった……」

ではどうすればよかったのか。袋小路な考えにしか行き当たらず、同じことを思考し続けるのにも疲れてしまった。

掌中に感じる時の雫。

きらきらとした魔力の砂が、過去をやり直せるのだと僕を誘う。

僕は何もかもをやり直すことができるのだ。

何を迷うことがあるというのか。

時の雫を握り直し、腕をゆっくり真上にあげた。

いったい記憶はどこまで受け継がれるだろう。

そして、クライヴさん、ヴィルフリート……。


――ルカさん。

僕にとっては、一度裏切ってしまった……いや、先ほどの事も含めれば二度だ。

僕は大事な人を二度も傷つけて、忘れ去ろうとしているのだ。

時間が巻き戻れば、彼女の記憶から僕は消えてしまう。最初からいない人物になってしまうのだ。

そして、僕の中からもルカさんの事は消えるかもしれない。



…………忘れたくない。

嫌われても、ルカさんやヴィルフリートたちと出会ってから今日までの出来事を、なかったことにはしたくない……!


「……やっぱり、できない」

僕は力無く腕を下ろし、時の雫を胸に抱くと背を丸めた。

彼らが僕のことを忘れてしまうことを想像するだけで、心が軋んで強い拒絶を示す。

忘れてほしくないし、忘れたくない。

僕はわがままなのだ。落ち込んで、彼らの意思を聞かずに事を進めて。

いざ、そのときになったら嫌だと子供のようなことを考える。

「僕は、最低なんだ……。今更、こんな……」

浮かんできたのは悔恨と不安。そして、強い自己嫌悪。

整理できない感情で、頭の中も心の中もぐちゃぐちゃになってしまっている。

涙が溢れて、カソックの袖で拭っても止まってくれない。

「泣いたって何も変わらないのに……」

もう、どうしようもないのだから。


「暗い部屋に、今の君はよく馴染むな……」

誰かの足音が間近で聞こえたと思った時には、僕の背中へと声が投げかけられ、室内に光が入ってきた。

突然の強い光量がまぶしくて、僕は光を抑えるべく顔の前に手をかざし、目を細める。

この部屋の蝋燭が消えていたことにすら、気がつかないまま長い時間佇んでいたようだ。

手に細長い筒……ルカさんが『懐中電灯』と呼んでいたものを僕に向けた声の主は、クライヴさんだった。

「素直になれないのは、君も主人も同じなんだろうか。
彼女は枕を数回殴っては『バカ』と言い放って、また枕を殴る行為を繰り返していた。今はウァレフォルが側にいる」

クライヴさんは持ってきた燭台を卓上に置くと、マッチを擦って火を灯す。

『懐中電灯』のスイッチを切ると人造的な光が消え失せ、暗闇には僕らの姿がぼんやり浮かび上がった。

手を振ってマッチの火を消し、燃え殻を皿にのせると、クライヴさんは僕の顔をまじまじと見つめた後『かたや……こちらは』と息を吐きながら続ける。


「迷い子のように泣いているくらいなら、お互いもう少し言葉を交わせ。ここまでこじれることはなかっただろう」
「……仰る通りだったかもしれません。ですが、力が落ちていると知られたくなかったのです」

治癒や浄化も出来ないなら、僕がここにいる必要が無くなるし、何より幻滅されるかもしれない。

「大丈夫だと思うけれど……それはわたしが口を出すことではないな」

それより腹が減らないか、と聞いてくるクライヴさん。

人間は悲しくても、怒っていても、笑っていても空腹になる。

「いえ……今はあまり……食欲がなくて」
「わたしが言うのもなんだが、食事はきちんと摂ったほうがいい。体だけではなく、心に栄養を与えるらしい」

彼女の受け売りだが、最近わたしもその通りだと思う……そう口にしたクライヴさんの声音には優しさがあった。

クライヴさんもルカさんらと共に生活をし、考え方が少しずつ変わってきたのだろう。

「申し訳ありませんが、僕に……みなさんと同じ食事はそろそろ必要ありませんから……」
「まだ数日ある。食事を摂らなくとも、同席するくらいはいいだろう?」

暗闇でボーッとしているよりは気が紛れると思う、なんて皮肉めいたことを言われてしまい、僕も『そうですね』と返すほかなかった。

実際、今は一人でいるとまた答えの出ない考えばかりをしてしまう。

同意を示して軽く頷いた後、クライヴさんは食事の準備をし始めた。

最近彼はルカさんの手伝いをしているので、彼女の作る料理の献立も少々覚えたらしい。

皿に盛られた食事は一人分の量にしては多そうだ。きっと――僕の分も含まれている。

『みんなで食べるから、いっぱい作ったよ!』

嬉しそうに微笑んでくれるルカさんの表情と弾んだ声を思い出した途端、心の底から後悔のようなものが溢れ出した。

切なくて、クライヴさんがいるというのにまた泣いてしまいそうだった。

こうして僕に接してくれるクライヴさんの優しさも、嬉しいよりも苦しいと感じてしまう。

「……僕は、結局何も選べないままです……。父かルカさんのどちらかを選びとることもできなくて……結局、僕はかけがえのない者を傷つけてばかりです」

いっそこのまま消えてなくなりたい。

そう漏らすと、クライヴさんは包丁を動かす手を止め、ゆっくり僕の方へ顔を向けた。

失望も呆れも哀れみも愛情もない、いつもの無表情だった。

「……何かを成し遂げるために、何かを犠牲にするという考えは、至って普通なのではないかと……わたしは今までずっと疑いもなく思っていた」

しかし、世の中はそう簡単に割り切れないらしいと言って、クライヴさんはまな板の上へと視線を落とす。


「犠牲を払って得るものもあれば、君の主人のように偶然や環境の力によって失うものなど無いまま手に入れられるものもいる。ここにきて、ようやくたまったツケを払うのかもしれないが」
「……ルカさんは悪くありませんよ」

いつも僕らのために、心を痛めたり危険な目に遭ったりしていた。時々奇妙なことを言い出すことはあったけれど、彼女の優しさも行動的なところも、僕は好ましいと思う。

「良いか悪いかはわからない。ただ、ルシエルに聞きたいことは――たった一つだけだ。
悩みなどは考慮せず、自分の意志で答えてほしい。
ここにいたいのか、いたくないのか。おそらくそれが……一番重要なのだと思う」

振り返り、僕の顔をじっと見据えるクライヴさん。


彼はその質問をするためだけに、ここにきたのかもしれない。

でも、たくさんの言葉を重ねて理解していくより……とても的確な質問だった。


この魔界に。

ルカさんやヴィルフリート、そしてクライヴさん。

彼らとともにいるこの環境は奇異で、それでいて愛おしい。

「僕は……」

この生活が――……。


大好きだ。


「――力があったなら、この生活を続けていきたかったです……」

そう、天使としての力があったなら、僕は悩まなかった。

「前提ありきではっきりとした答えではないようだが、帰りたくない……と捉えていいのか?」
「ええ」

ふぅむ、とクライヴさんは言いながら食器棚から数本ミートナイフを取り出し、まじまじとその切っ先を眺めた。


――と思っていた矢先、僕の方へとそのナイフを投擲する!!

「ッ……!?」

クライヴさんの敏捷さは、能力が低下したといっても十分なものだった。


僕の頬をナイフが掠め、ぴりりとした鋭い痛みを与える。

ナイフは僕の後方にある柱に突き刺さった衝撃で、その柄を左右に揺らしていた。

僕にナイフを投げたクライヴさんの顔は、悪びれた様子もない。

「――彼女から愛されなくとも。ウァレフォルの信頼を無に帰したとしても……君はここに残りたいか」

ナイフによって裂かれた頬に、何かが伝う。

僕が手の甲で拭ってみると……それは、少量の血だった。

「つまり、誰からも必要とされなくとも、という事でしょうか」
「解釈は君に任せる。質問しているのはわたしだ」

眉ひとつ動かすことも無く、クライヴさんは僕の意思を確認してくる。

「……もし全てを失ってしまっても……今までの何十分の一でも、取り戻すことができるよう励みます」
「この数日で出来る事は?」
「それは……」

この数日で。僕が出来る事なんて――……。

「そこが重要な事ではないのか?」

たとえ話なら必要ないんだが、とクライヴさんは盛大なため息を漏らす。この仕草はヴィルフリートに似ているのだけど、無意識にやっているのなら……伝染(うつ)ったのだろうか。それは労しい……。

だけど、言っていることは至極当然で、僕は再び考えてしまう。

残された時間は二日半程度。

その間に、この魔界で出来る事……。やるべきことは……。

「ルシエルは、自分がどういう状態であればここにいられると考える?」
「……瘴気の浄化やルカさんやクライヴさんの怪我や病気を治療できる程度の力があれば……」
「きちんと分かっているじゃないか」

そんなに悩むことじゃないだろう――クライヴさんはそう告げながらテーブルの上に薄切りにしたチキンと野菜を置く。

「食事を摂ったら一緒に外へ出かけよう。君の欲する答えが、この魔界のどこかにあるかもしれない」

何でもない事のように言うクライヴさんに、今度は僕が彼をじっと見つめ返した。


「? どうしたんだ」
「なぜ……助けてくれるのです?」

すると、クライヴさんは手助けのつもりはないと言って、自身のチョーカーを指した。

「わたしにとっては、ルシエルに大きな借りがある。それを返す前に忘れてしまうのは不義理だ」

いわば自分の為だと言うけれど、彼が本当はすごく優しい人だというのも知っている。

「……ありがとうございます」
「それにわたしも、君には帰ってほしくないしな……」
「……っ、そ、そうですか……」

面と向かって言われてしまうと、なんだか気恥ずかしい。

「……なぜ照れる。わたしはそういう趣味もないし、そういうつもりで言ったわけでは!」
「わ、わかっています! 僕だって、男の人とはイヤです……!」

首を振って激しく否定するのだけど、クライヴさんは何がおかしいのか小さく微笑んだ。

「ようやく、元気になってくれた。それくらいが一番ルシエルらしくていい」
「うぅ……」

妙な褒められ方をしてしまったけれど、彼なりの気づかいなのかもしれない。

これ以上クライヴさんと話をすると、何故か僕が照れてしまう。

しかし、なるほど――ルカさんが時々クライヴさんと話していて挙動不審になってしまうのが分かる気がした。


今出来る事を考えて行動する。


それは、ルカさんが得意としていたことではなかったか。

たとえ二人に許してもらえなくても、僕に出来る事を尽くすほかない。


急に僕の心に、力が湧いてくる感じがした。



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