【魔界で従者を手に入れました/42話】

夜。私が自分の部屋で髪をゆっくり梳いていると、ドアを遠慮がちにノックする音を追いかけるように、ルシさんの失礼しますという声が聞こえた。


承諾の返事をすると音もなくドアが開かれ、穏やかな微笑みとともにやってきたルシさんの姿に、ちょっとだけ新鮮さを感じる。

服はいつものカソックではなく、珍しく白いパジャマ姿だった。

……今日の夜は、ルシさんと一緒に過ごすことになっている。

意味をどう捉えてもらうかは、それぞれだけどさ。どれもなんとなく正解だし。

「あ。ルカさん、僕が梳きましょう」

私が髪の手入れをしているのだと判断すると、櫛を、と言って手を差し出しながらやってくる。ブラシとか言わないんだ。

「大丈夫だよ。髪くらい一人でできるから」

気持ちは嬉しいのだけど、従者でもあるとはいえ、ルシさんにそんなことまでさせられないよ。

しかし、ルシさんはそこであっさり引き下がるような子ではない。

私に断られてしまった彼は残念そうに自分の足下へと視線を落としたが、再度顔を上げて私を視界に収め、はにかみながら『お願いします』と口にした。

「僕がルカさんに近づきたいので、髪に触れさせていただきたいです」
……なんて言われちゃうとね。断れなくなっちゃうよ。
「わかったよ。じゃ、お願いしちゃおうかな」
「お任せください」

そう嬉しそうに笑って、ルシさんは私の手からそっとブラシを受け取ると、私の髪を丁寧に、すごく丁寧に梳き始めた。

「ルカさんの髪は、指通りが凄く良いですね。いつも丁寧にされているのでしょうか」
「え、そ、そんなでもないよ。軽くやってるだけ。けっこーぐちゃぐちゃだよ。
私より、ルシさんの方が凄く髪質良さそうだし、何よりサラサラで綺麗じゃない?」

僕も特に手入れはしていませんとルシさんは笑うのだが、神様に作られた子たちだから、そんなに手入れしなくても綺麗なままかもしれない。

そういえば、ルシさんが初めてここに来たときには、あまりにも汚れていたのでこの部屋のお風呂を貸したけど、あの時にはここにボディーシャンプーとか置いていなくとも綺麗になってたからなぁ……。


そんなことを考えていると、ルシさんの細い指先が私の髪から頬へと滑り落ちてくる。

その暖かさに気づいたときには、ルシさんの顔は割と間近にあった。

「忙しい合間に長い髪を手入れするのは、大変でしょう……。僕などは、髪も短いですから苦ではないです」

髪よりは翼のほうが手入れが大変なくらいですよと微笑んでいる。

「ああ、そうだよね……。背中に生えているんだから、簡単には手入れできないかぁ。
でも、あまり手入れしなくても、ルシさんは綺麗に作られてるんだなー、ってわりと本気で思うんだけど」

すると、ルシさんはこれまた綺麗な紫色の瞳を不思議そうに瞬かせ、そうでしょうかと意外そうな顔をした。

言っておくけど翼はおろか、顔立ちだってかなりの美人さんなんですよ、この人は。

あ、でも、ここには恐ろしい美貌のヴィルフリート、クールでミステリアスなクライヴさんというイケメンしかいないや。

そもそも、私が魔界で出会った人って結構美形ばっかりだったけど……。

こんなところに来ちゃって、どこを見ても美男美女ばっかりだったら(割と美形ばっかりだし)平凡な自分の容姿がコンプレックスになってしまいそうで嫌なんだけど。


「……どんなことを考えているのですか?」

私が何も言わないのを不思議に思ったらしく、ルシさんが小首を傾げつつ訊ねてくる。

まさか、自分の主人が顔面偏差値についてとかくだらない事を考えているとは思わないだろう。

どういう意図があるのか、実は全くないのか、もっと顔を近づけてきた挙句に優しく耳元で囁かれると、やっぱり焦る。

吐息を感じる耳もくすぐったい。

最近あざとくなってきてる部分もあるし。

私をからかって、わざとこうしてやっているのかもしれない。

「ルシさんは、良く私を見てくれているんだな、って」

実際それは嘘じゃない。私の顔色や態度を見て、庇ってくれたり慰めてくれたりする。

すると、なぜだかルシさんはじわじわ顔を赤らめ、伏せ目がちになりつつ『そんな……当然の事ですよ』とぼそぼそ呟いた。

あれ、照れちゃったぞ、この人。急に初々しくなっちゃって可愛すぎ。

天使も(もう堕天使だけど)褒められるのは慣れていないのかな?

ドレッサーの鏡越しに、可愛らしい笑顔を浮かべているルシさんを眺めていたら、不意打ちというかなんというか。そのまま後ろから抱きしめられた。

「あ、あの、ルシさん?」
「ルカさん……」

うわ、熱っぽく囁いてきた。これは、ルシさんのデレスイッチが入ってしまったみたいだ!!

「僕は貴女を見ているだけで、胸に愛しさがこみ上げてきます。だけど、もっと、貴女と身も心も深く繋がっていた……――!?」

ピロートークさながらの言葉に、私ときたらすっかり飲み込まれてどぎまぎしてしまったんだけど。

何か急に態度を変えたルシさんは、素早く私から離れて、部屋の至る所に視線を移動させながら何かを探している。

「どうしたの、ルシさん……? 虫? ヴィルフリートか何か?」
「いえ、この感じはヴィルフリートではないです。
でも。どこか、城内に……何か妙な。言い難い違和感を覚えます」

目つきを険しくさせ、気になるので探してきますと言うが早いか、彼の体を六枚の羽が包み込む。

わぁお、なんということでしょう……瞬時に白いパジャマからいつもの黒いカソック姿に戻ってるし。

その早着替え方法は羨ましいけど、そういえばルシさんの服って光? それとも魔力とかの何かなの? そっちも気になっちゃうんだけど。

「異状がなければすぐ戻ってきます。何かあった場合、すぐに僕を呼んでください」

じっとルシさん(の服)を見ている視線に気づいた彼は、どうやら私が不安を抱いているものだとポジティブ勘違いをしたようだ。

大丈夫ですよと言いながら慈愛に満ちた微笑みを浮かた後、気持ち急いで部屋を出ていってしまった。

ドアの閉まる音と共に、静寂が再び私の部屋に戻ってくる。


何かしらの違和感をルシさんが感じたって事は、やっぱり城主のヴィルフリートも感じたって事なんだろうか。

でも、城の地下にはネズミみたいな雑魚魔物とかもいるって聞いたんだけど、それ以上の気配を感じたって事なのかな。

昼間の吸血鬼みたいな奴がきて……いや、もしかして、クドラクとかが来てるって事も有りうるんじゃないの?

毎日夢にクライヴさんが出ているっていうのもあるし、同じように毎晩私の夢にクドラクが出てきているからクライヴさんも現れてるって事――も考えられるんじゃない?


それなら、私一人だけで部屋に居たくない!


鏡越しに見る部屋には当然、私以外誰もいない。

ドレッサーの椅子から立ち上がり、ひとまずカーディガンを取りにクローゼットへ向かおうと方向転換して……急に膝から絨毯の上に崩れ落ちた。


……あれ?

なんだか、身体が動きづらいし変に眠い。

寝るならベッドに行かなくちゃいけないけど、だんだん、意識が泥みたいにとろけていく。

私そんなに……疲れて……たの、か、な……?

そうして、急に訪れた眠気に屈してしまった私は、瞼がだんだん閉じていくのに従い、遠ざかる意識と視界が暗転していくのを感じていた。


――で、私は世界が真っ暗になった次の瞬間、白いワンピース姿で何もない場所に立っていた。

おや? 私は確か、急に眠くなって倒れちゃったはず。

でも、今こうしている私は全く眠くない。しかも、ここ……どこだろう。

見覚えのない……ううん、ある。ここ数日いつも同じような場所が夢に出てるって、ちゃんと覚えてる。

ということは、こうしている私は『夢の中』の私ということ?

本当に私が眠っているかどうか、明確に分かっているかと聞かれると……自分でこれは『夢なんだな』って理解できる程度。

どんなもんか試しに腕を抓ってみたら、なんか……痛いような痛くないような。強く抓ってみたけど、感覚は変わらない。

自分の爪が腕に食い込んでいるのに痛くないっていうのなら、これは夢でいいよね。


肉眼で見える辺り一面、霧で覆われたような場所。草木の影はおろか、人の影すら何もない。

濃霧のお陰で何も見えない薄気味悪い所に、私は一人ぼっちで立っている。


すると。


『ルカ……』

また、私の名前を呼ぶ謎の声。

いつもの、誰だかわからないあの声だ。


「……誰?」

毎回同じように問いかけてみるけれど、やっぱり返事はない。ただの一度もないんだよ。

『ルカ……人間の娘よ……』

だけど、私を呼ぶ声はしつこくずっと聞こえてくる。

こっちは誰だって聞いてんのに、そっちは返事しないでさー。私の名前ばっかり呼んで何なの? 自動応答なの?

しかも、どこで知ったのかも分からないし。だんだん答えるのも面倒になってきた。

『ルカ……』

そんな私の気を逆撫でるかのように何度も何度も繰り返し呼びやがるから、私の頭の中でとうとう何かがキレた。


「――ちょっと! この間から何なのあんた! コソコソやってないで、とっとと出てきなさいよ!」

そう吼えるように告げた瞬間、霧の中から青白い手が伸びてきて、私の右手首を掴む。

腕から伝わるその手の冷たさと、突然のことに対応できず、『ひっ』という引きつった声が自分の口から漏れた。

視界を覆い、数メートル先すら見通す事もできなかった白い霧は、青白い手首の先を繋ぐかのように吸い寄せられ、収束し、霧が……人間を形成していく。


「お望み通り、姿を見せたぞ。我が律せぬ衝動の矛先よ」

霧が作った人間は――見間違えることはない。

私をお風呂場から連れ去り、どこかの時計塔に拘束したあの吸血鬼、クドラクだったのだから。

「やっぱり、あんただったの……! ていうか離しなさいよっ! 変態!」

掴まれている腕を振り解こうと身を捩ったり腕を引いたりしたけど、クドラクは薄く笑ったままで、ちっとも腕を離す気もないようだ。

腕は強く掴まれているわけではないから、きっとあいつは軽く握ったままでいるつもりなんだろう。

「掌中の小鳥は健気にも広き空へ逃れようと、羽根を散らし、悲壮に満ちた声を上げるものだが……獣に捕らわれし小鳥が、再び自由を得ることはない」

荊の鳥籠がどうだのこうだのと、まだクソ長い口上は続いているんだけど、そんなものを聞いていたくもない。

「煩いわね! この手を離せって言ってるでしょ!? いい加減にしないと――」
「ほぅ? どうするというのだね?」

私の言葉に興味を示したらしいクドラクは、少々大げさに眉を上げ、目を見開いてから早く言えと啖呵の先を促してくる。

「……ぶっとばす」
「おやおや、粗暴な。我を倒す? 武器を一つも持っていないというのにかね? 従者もなく、その細腕ひとつで我と戦うと?」

そうなのだ。夢の中とはいえ、一人っきり。

でも、こんなのは所詮夢だ。こうして私の意識ははっきりしているわけだし、目覚めようとすれば起きることができるはず……!

「ふふ、無駄だ。いくら聖人と同じ名を持つ者とはいえ、特別な修行もしていない人間が、我の魔力からは逃れることなどできるはずもない」

無理に目覚めようとした私の考えを呼んだのか、それとも、長年の経験でだいたい被害者がどうするのかを知っているからか――クドラクは私に顔を近づけてきた。

「お前の身体に流れる熱い血潮と、天使と悪魔を魅了するその肉体が欲しいのだ……。さぁ……我を誘え」

生臭い吐息が顔にかかり、長く伸びた犬歯がちらりと唇の端から見えた。

「ふざけんじゃ……ないわよっ! あんたなんかに誰がヤらせるかっつーの!」

空いている左手でその頬を張ってやろうと振りあげたのに、振り下ろしたところでその手首すら握り込まれて阻止された。

両手の自由を奪われた私が狼狽えたのを見たクドラクは、抵抗できないようにと私を地面に押し倒す。

「痛っ……! な、なんのマネを――」
「我の目を見ろ」

命令調の声音に、危機を感じた私はすぐに顔を背けた。

しかし、クドラクは片手を離して私の顎を掴み、顔の向きを自分に向けてから、私の目をじっと見つめている。

奴の赤い瞳が怪しい輝きを見せている。

何か危険だ。これ、確か魔眼とかいう、魔法みたいな眼の力のはず。

急いで眼を閉じようとしたけれど、もう身体が動かない。それどころか、抵抗しようとする力が抜けていく。

「ここは夢の中。お前と我しかいない世界。
確かにお前本来の身体は『ここ』にはないが、精神を手に入れ、城内に姿を見せ、お前の首に牙と血液を突き入れることは数秒でできる。
ヴィルフリートの小僧らに見つかる前に、お前の精神を手に入れるという行為のみは手早く済ませてしまいたい」

頭の芯が、ぼうっとする。

クドラクの言葉が頭の上を通り過ぎていって、記憶や感情の中にまで浸透しない。

それでも、いけないことが起こってしまいそうだというのはよく分かっていた。


まだ長い口上を垂れながら、クドラクは私の首筋にある刻印――こいつが自分でつけた――を指でなぞってから、首から鎖骨へと爪を滑らせていく。


そのまま私の胸元にクドラクの爪が伸びて来て、薄手のワンピースを引っ掻けると一気に引き裂いた。

シュッという風切り音が耳に届き、ワンピースの一部であった布の切れ端が宙を舞う。


思うように動けない身体だけど、顔は動かせるようで、ちょっと頭をもたげて自分の胸元を確認した。

どうやら私は下着をつけていなかったようだ。

引き裂かれた服は、もう着ているというよりも引っかかっている、という程度にしか身体にかかっていない。

胸は隠す部分がないくらい露わになっていて、アソコは辛うじてワンピース……だった布の一部が隠してくれていた。


夢の中とはいえ、私はノーパンノーブラでどこかを歩いていたなんて、自分も変態だ。


「さぁ、楽しませてもらうとしよう」

無遠慮にクドラクの手が私の胸に手が伸びて、左右の乳房を包み込む。

「おお……! お前の豊かなる丘の恵み、我にも伝わるぞ!」

クドラクは私のおっぱいを掴むように揉み、握ったりして感極まったような声を出している。

たかだかおっぱいを揉んだくらいで、なに喜んでんのよ! と、いつもの私なら思っただろう。

悲しいことに今の私は、恥ずかしいとか怖いとか、そういう感情の高ぶりはない。

心の抑揚すらなく、なすがままの状態で私は胸を好きでもない男に乱暴に揉みしだかれ、悲鳴も上げず、自分の胸を見つめるだけだ。

クドラクも揉んでいるだけでは足りなくなったのか、舌を延ばして私の乳首にしゃぶりつこうとし――もう少しで舌がそこに届く、というところで、驚いたように目を見開いたまま顔を上げた。

その刹那、私とクドラクの間に銀色の光が滑り込む。

「チッ……!」

鋭く息を吐きつつ、明確な声ではないが、そこには罵るような音の響きがあった。


後方に大きく跳んで銀色の何かを避けたクドラクと入れ替わりに、私の眼前に白いコートがはためいて、一瞬視界を覆う。

「ルシエル達が城内をくまなく探し歩いているのにも関わらず、同じ気配が複数あり、居所が特定できないという。
クドラク……貴様、城内に己の身体を霧状にして魔力を撒いたな」

銀色の髪の、居候吸血鬼狩人――クライヴさんは私を一瞥した後、すぐに視線を逸らすとコートを私の身体の上に投げかぶせ、再びクドラクに射殺すような視線を向けた。

クドラクはといえば、クライヴさんの視線を真っ向から受けたまま腕を組んで、薄ら笑いを浮かべている。

「これ以上……わたしと何も因果のないものまで巻き込み、愉しいかクドラク!」
「無論だともクルースニク。長い年月待ちわびた『人間』だ。全てを味わうのは礼儀でもある」

クライヴさんの激昂も、クドラクには全く効かないようだ。

愉しそうに薄ら笑いを浮かべ、私とクライヴさんを交互に見て喉の奥で暗く笑っている。


「しかし、クルースニク……血塗られた貴様が人間を護ろうとはお笑い草だ。
今まで二度の絶望を味わった気分はどうだ。三度絶望に沈むのも悪くはないものだぞ?」

何かを含む口振りに、クライヴさんは『黙れ!』と声を荒げて相手の言葉を拒絶する。

今まで冷静だったクライヴさんがこんなに怒鳴ったことはないし、常に怒っているような顔つきではあっても、マジギレの域にまで達している、こんな怖い顔は見たことがない。

「……二度、って……?」

まだ頭の芯はボーっとするけど、会話が聞き取れないわけではない。

ゆっくりとした口調ながら気になったことを尋ねてみたけれど、クライヴさんは答えようとしなかった。

だけど、クライヴさんの表情――というか、顔色は優れない。

「クライヴさん……なんだか体調悪そうだけど、大丈夫?」
「わたしの心配は不要だと言ったはずだ」

こっちを見ずに答えちゃうクライヴさん。相変わらずだと思った矢先、クドラクがウソをつけ、クライヴさんを嘲笑する。

「娘の言う通り、随分血の気が薄そうな顔ではないかね? 薄幸の男に、死相が浮き出ているなぁ?」

クドラクはクライヴさんのやや後方にいる私へ向かって、知っているかと声をかけてきた。

「『夢渡り』を人間が使えば、体力や精神力に相当の負担がかかるのだ。
それに、この男。昼すら吸血鬼の退治で碌に眠っていないのだろう?
疲れを癒す暇すら無ければ、今現在、この男が本来持っている力を十分に発揮できん……違うか、クルースニクよ」

クドラクが冷静に指摘する内容は、クライヴさん本人だけではなく、うまく頭の働かない私ですら動揺を誘うものだった。

思わずクライヴさんを仰ぎ見れば、彼は眉をひそめ、軽く唇を噛んでいた。心を静めようと努めているようにも見える。


協力するといった手前、自分の体調を犠牲にしてまで約束を果たそうとしているみたいだ。

「クライヴさん」
「変な勘違いをするんじゃない。
わたしは、君のためにやっているわけではなく、自分の利益を考えた結果、こういうことを行っているだけだ」

そう言いながら銀色の剣を抜き、クドラクへ輝く切っ先を向けた。

「今度こそ、永遠の眠りにつかせてやる」

言うが早いか、クライヴさんは素早く近寄るとクドラクとの距離を一気に詰めて、心臓を狙って目にも留まらぬ突きを何度も繰り出す。

この猛攻でもクドラクは表情を崩さずに、クライヴさんの攻撃を紙一重で避け続けていた。

なんだかわからないけど、良く見えないけど、すごい。二人ともすごい。

「なんだ、こんなものか? 欠伸がでるぞクルースニク。少しは強くなったかと思ったが、期待はずれもいいところだ。
これでは――我は倒せんぞ」

落胆のようにも聞こえる侮蔑の言葉を受けたクライヴさんは、その整った顔を更なる怒りによって歪ませる。

「おのれ……! おのれクドラク!!」

水平に大きく剣を振ったクライヴさんに、僅かだが、勝負を分けるには十分な隙が生まれていた。

剣を振りきり、がら空きになった彼の懐へと悪鬼クドラクが滑るように潜り込んできたのだ。

驚きと痛恨のミスに、目を見開くクライヴさんの横顔が私のところからでも見える。

「これで貴様も終わりだ、クルースニク!!」

クライヴさんの肘打ちを躱しながら、左手の鋭い爪で、クライヴさんの脇腹を深く抉る。

赤い血が目の前で噴き出し、クライヴさんの白い服とクドラクの顔を深紅に染めあげる。

「クライヴさん――!!」

思わず悲鳴じみた声を上げた私に向きなおり、自分のことはいいから、早くルシエルを呼べ、と苦しそうな顔で告げたクライヴさん。

その顔にも、自分の返り血がついている。

そうだ、早く、早くルシさん……、呼ばなくちゃ……。

しかし、目の前で傷ついているクライヴさんを放っておいて、自分だけ逃げていいのだろうか。

私の心配を察したのか『これは夢の中だ』と、クライヴさんが怒鳴る。

そうだ、夢の中なんだ。

私が早く目覚めれば、クライヴさんも助かるんじゃないか……!!

「――ほう。娘に心配をかけさせまいと振る舞うなど可愛げがあるな、クルースニクよ。
だが、本当に夢で終わると考えているのなら、どうなるか試してやろう」

不適な笑みを見せたクドラクは、クライヴさんを押さえ込んだままくわっと大きく口を開けた。

――やだ。これはいけない。
「ルシさん……! ヴィルフリート! 助けて!!」

早く!!

そう強く願った瞬間。私の視界は、一瞬で真っ白になって弾けた。


「――ルカさん!」
「ルカ……!」

ハッと気がついたときには、私はヴィルフリートとルシさんの二人に寄り添われていた。

「あ……」

ルシさんが、ほっとしたような表情を浮かべ、ヴィルフリートは私の額に張り付いた前髪をかきあげながら『大丈夫か?』と聞いてきた。

というのも、私は寝汗をびっしょりとかいていて、服も所々汗で濡れていた。

悪夢……を見たばかりなので、息づかいも乱れている。

「ありがとう……起こしてくれて。助かっ――」

助かったと口にしようとして、私はすぐにクライヴさんのことが脳裏をよぎる。

私は無事だけど、クライヴさんはどうなったんだろう。

「――クライヴさんが危ない!!」

急いで起きあがった私に、またクライヴかよと文句を言うヴィルフリート。

「ばか! クライヴさんは、クドラクに夢で襲われていたんだよ!」

そう教えたとたん、二人の顔色が変わった。

ヴィルフリートは先に行くといって瞬時に姿を消し、私とルシさんは部屋を飛び出し、駆け足でクライヴさんの部屋へと急いだ。


――無事でいてほしい。

最後に聞いたクドラクの言葉が気になる。

クライヴさん、あの時すでに怪我をしていたんだ。

この胸騒ぎが杞憂であればいい。


半ば祈るような気持ちで、長い廊下を走り抜けてクライヴさんの部屋の前までやってきた。

「クライヴさん! ヴィルフリート! ドアを開けてください!!」

日頃とは違い、やや乱暴に部屋のドアを叩くルシさん。切羽詰まっているのが見て取れる。

すると、部屋の鍵が外されるような音がして、ドアを開けたのは――ヴィルフリートだった。

薄暗い室内は、どんな状況なのかはわからない。

ヴィルフリートが私の顔を見て、見ないほうがいいと言ってくれたけど、これは無事じゃないっていうのを示唆している。クライヴさんの具合はますます心配だ。

だから通してほしいというと、見ても気絶するなよと、奥の方へと視線を投げるヴィルフリート。


ちょっとこの先へ行くのは怖い。

怯みそうになる心を叱咤し、私は部屋の内部へと足を踏み入れる。

なんだか、錆びたようなにおいが、する……。


違う。


この匂いの正体が分かったとき、私は事実の残酷さと恐ろしさに身体が震えた。

錆びているんじゃない。強い……血臭だ。


「クライヴさん……!」

一足先に部屋の奥に消えていったルシさんの声が緊迫したものに変わったので――察しがついた。

通路の奥、屈んだルシさんの大きな翼が見える。その先に、クライヴさんがいるのだろう。


怖かったが、私は、彼がどうなっているのかをきちんと、知らないといけない。

ゆっくり、壁に手を置きながら歩を進め、そっと部屋の中を覗き見ると――


赤黒く――血で染まったベッドの上に、同色の服を身に纏うクライヴさんが倒れていた。


私が夢で見た通り、彼の脇腹には深く抉られたばかりの傷があり、もっと恐ろしいことに彼の首筋には、小さく丸い穴が二つ。


クドラクに凶牙を突き立てられた痕が、あったのだった……。



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