クライヴさんが来てから早一週間。
この、逆さ十字に羽根付きの蛇という刻印が私の身体に施されてから、時々変な夢を見るようになった。
白い靄が、あたりに立ちこめている何もない場所。
そこに私は一人だけで立っている。
ルシさんもヴィルフリートもいない、静かで寂しい場所。
『おお……ルカ……人間の娘……』私を呼ぶ男の声。ヴィルフリートでも、ルシさんでもない。
問いかけの返事はない。
しかし、私の前面……靄の中に誰かがいて、早く、と、向こうにいる人影が手招きをしている。
……何なの? あなた、誰?相変わらず男は答えない。でも、その呼ばれている声には何らかの強制力がある。
何も考えず、ふらりとそちらの方に歩を進めると――
決まって、どこからかクライヴさんが乱入してくるのだ。
すると、靄はざぁっと晴れて……私の眠りも、覚める……。
ベッドの上で、私はゆっくりと瞳をあける。
妙にリアルな夢なのだけど、昨日は一人で寝たし……
相変わらずクライヴさんは私をあまり快く思っていないようだから……私的に今より多少は仲良くなりたい願望でもあるのだろうか。
うーん、一体何でそんな夢を見るのだろう。
考えても埒があかないし、答えがでない思考は、考えるだけ無駄ってものだ。
ベッドシーツの乱れをぱっぱっと軽く直し、クローゼットを開けて適当な服を掴み、それに着替えた。
白いシャツと、ジーンズを履いて……髪を軽く整えながら、鏡を見た。
この生活になってからというもの、一つ屋根の下で、数人の男と同棲しているわけで……。
流石に、起き抜けの格好じゃ恥ずかしい。
部屋には洗面台がないから顔をここで洗えないけど、食堂へ行く前には洗っておきたい。
化粧品一式の入ったポーチと、タオルを持って部屋を出る。
私の部屋から一番近い水場が、お風呂場の脱衣所。
今の時間なら誰もいないはずだし、さっさと顔を洗って朝ご飯食べようっと……。
脱衣所の扉に手をかけて、一気に開けようとすると――
「入ってくるな」
という、鋭い制止が飛んできたため、思わず半分ほどドアを開けたまま固まった。
「……ぁ……」そこには、前をタオルでとり急ぎ隠しましたという感じのクライヴさんがいた。
しかも、身体を拭いている途中だったのか、まだ全身びしょびしょだ。
「…………」私に向けられるきつめの眼差しは、いつも以上に鋭い。
「うわ、わ、ごめんなさい……! 誰もいないと思っ――」そのままクライヴさんはつかつかと扉に歩み寄ってくる。
「ちょ、待っ……」ドアノブを乱暴に握り、バタンと扉を閉められた。
――そうだよね、普通裸見られたら怒るよね……。しっかし、朝からお風呂はいってる人いるとは思わなかったよ……。
今後は入る前にノックするとか、何かしら対応に気をつけなくちゃ。
それこそ普段からやればいいことなんだけどさ、ルシさんは自分の部屋にちっちゃいお風呂があるからまず会わないし、ヴィルフリートは……用事がない限り朝は私より遅いから、出会う確率はあんまりなかった。
しょうがないから、食堂のキッチンで顔を洗わせてもらおう……。
そのまま食堂に行き、肌と自然環境に優しい洗顔フォームを使用してさっぱりした顔に、向こうにいたときから使ってた化粧水(これもニーナにいくつか買いだめしてもらってる)を軽く肌になじませて、っと……。
冷蔵庫からペットボトルを取り出して、ごくごくと喉に流し込む。
「……ぷはっ!」半分近く飲んだ後で、息継ぎみたいな呼吸をする。
あー、お水おいしい。お水はルシさんも作ってくれるけど、このフランス産のミネラルウォーターもおいしいんだよね。
喉の渇きも解消できたし、朝ご飯の準備でもしますか。
基本、朝ご飯は自分たちで作ることになっている。
みんな起きる時間がバラバラだから、待ってることはない。
ヴィルフリートと二人きりのときは、一緒に食べたりしたけどね。
……そうだなぁ。たまには待っててあげてみるのもいいかもしれない。また冷蔵庫を開けて、卵とハムを取り出すと、パンがあるか調べる。おし、あった。
パンをオーブントースターに放り込み、ダイヤルを3分くらいに合わせる。
電気の供給は、なんか魔力の珠によって賄われている。そもそも、変圧器とかヘルツとかの関係は気にしていない。
それも、なんか魔力の珠が適切にやってくれてるそうだ。便利な世の中になったものだよ……。
グリルの上にミルクパンに浄化水を入れて、卵を二つ放り込む。
簡単なハムタマゴサンドにしよう。ツナもあればよかったのになー……。
というようなことを考えていると、食堂に誰かが入ってきた足音がする。
振り返ってみると……げっ、クライヴさんだ。
既にきちんと白い服に着替えていた。まぁ当たり前か……。
「…………」いつもより三割増の冷たい視線で私をちらっと見てから、冷蔵庫を開けてチーズと水を取り出し、方向転換しつつ後ろ手で閉める。
戸棚からクラッカーも出して、パッケージを開封しつつ――私の視線を感じていたらしく『まだ何か用でもあるのか』と不機嫌そうに聞いた。
「な、ないけど……さっきはごめんなさい……」ぎこちなく謝ると、クライヴさんは私の方を見ず、ただ『ああ』と言うだけだった。
詰られたり、嫌味を言われたりもしないぶん……後腐れない人なんだと思うけど、その反面何を考えてるのかわからない。
互いに言葉を交わすことなく、私はパンにバターを塗る作業を続け、時折クライヴさんがクラッカーを齧っているらしい、サクッという小気味よい音が聞こえるだけだ。
しかしながら、この居心地の悪さは異常。
確かにクライヴさんと笑いあいながら食事を摂るような日が来るとは思えないけど……。
でも、もうちょっとなんとかならないかな。
「…………ク、クライヴさんも、サンドイッチ食べる?」Oh……。こっちを見てもくださいませんよ。取り付く島もないっていうか、なんていうかさー……ツンツンされてもさ……胃が痛むよ……。
きっとクライヴさんの中では、私に触れたら妊娠させられちゃうみたいな、節操のないスケベにしか思われていないんだろう。
だからあんな軽蔑の眼差しを送ってくるんだ……!
食事もとりあえずといった感じで終えると、クライヴさんはペットボトルを持ってどこかに行ってしまった。
まだ、ヴィルフリートとかルシさんが一緒だと、柔らかい感じなんだけど……。
「……やっぱり嫌われてるのかな……」別に何もしてないのになぁ。さっきお風呂でバッタリ会った以外は……
あー……初めてクライヴさんが来た日に、お風呂場で大変なことをしていたんだった……!
でも、その前からあんまりいい顔はされていなかった気がするから、多分嫌いなタイプの顔とか性格とかなんだ。
別に誰からも好かれるとは思ってないけど、一緒に暮らしてるんだから、出来る限り友好的に接したいわけで。
卵をマヨネーズと和えながら、ぼんやりそんなことを考えていると……急に後ろから抱きすくめられた。
「おはよう、ルカ」両手が塞がっているときに来なくても……いや、来るならもう15分くらい早く来てほしかった。
綺麗な黒髪が、私の首を撫でて滑っていくのがくすぐったい。
「メシ、俺の分もあるのか?」それが嬉しかったのか、ヴィルフリートはありがとうと言って、私の頬にキスしてくれた。
……いかん、いかんですよヴィルフリートさん。さっきまでのクライヴさんのドSならぬ超ツンからのヴィルフリートのあまあま抱擁。私、なんかドキドキしてきた。こういうシチュエーションは、慣れてないし……!
すると、ヴィルフリートは私のお腹から胸に手を滑らせ……心臓の部分で止まった。
うわわ、ちょっと待って! 今はダメ! 聞かれちゃう!!
「……ルカ、鼓動が早いぞ」フッとヴィルフリートは微笑んでから……自分のほうを向かせて、見つめてきた。
本当に、凄い美青年……。溜息が知らずに自分の口から洩れて、綺麗だねと本人に言っていた。
「我が主人にお褒め頂くとは、感激の極みだ」すると、ヴィルフリートは『妬くなよ』といって、顔を近づけた。
「昔は遊びまわったが、今はお前だけだぜ……?」ずるい言葉だ。
なんだか言われた瞬間、頭の芯が痺れるような……うっとりとした気分になってしまう。
「……本当?」うう、ダメだって思っても、なんか流れでホントに好きになっちゃいそうだ……。
ダメだ、ヴィルフリートのほうが駆け引きは上手なんだから、私はなんとしても抗わねば!
でも、目を逸らすこともできず、ヴィルフリートのダメ押しみたいな言葉がやってきた。
「好きだぜ、ルカ……」そのまま、私とヴィルフリートの唇が重なり――そうになったとき。
「がっ……?!」ヴィルフリートが変な声を出した。
もう、こんな時に何よ……と思ったら、ヴィルフリートのこめかみには、銃が押し付けられていた。
「――まったく、油断も隙もありません。そこには、人殺しでもしそうなルシさんがいた。いや、この凄味のある表情だけを見るなら既に何人か殺っている。
あの綺麗な顔が、こんなに歪むなんて……嫉妬というか殺意というか、そういったものは大変に恐ろしい。
ヴィルフリートはひきつった笑みを見せながら、私からゆっくり離れていき、椅子に腰かけると……ようやくルシさんは銃にセーフティをかけてホルスターにしまう。
「危なかったですね、ルカさん……ダメですよ、心を簡単に許しては……」わかればいいです、と仰るルシさんの目が怖いです。
「邪魔者は本当に目障りですけど……ふふ、ルカさんには、僕がいますから……。ずぅっと、一緒です」ちらとヴィルフリートを見ると、あっちはあっちでとても機嫌が悪い。
うう、朝を爽やかにおくりたいのに、なんでこうなっちゃうの……。
でも、病まれたルシさんには逆らってはいけない。
自分が海で怪我をしたときにお腹の空いたホホジロザメに出会ったらどうなるか、と同じレベルだ。答えは『まず死ぬ』人生の教訓だよね。
嬉しいなぁ、と本当に可愛らしく微笑むのだけど、素直にキャー! ルシさーん! とは思ってあげられない。
ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つ動物と同じく、私はルシさんが通常モードに戻るのを待つばかりなのだ。
ごめん、ヴィルフリート。私は保身に走ります。後でいっぱい作ってあげるから、今は堪えて!
すると、ルシさんの機嫌は大層良くなって、手を洗ってきますと、脱衣所に軽やかな足取りで向かっていった。
それを見送ってから、大変不機嫌そうなヴィルフリートが私に怒りの矛先を向けてきた。
「どういうことだよ! 俺と一緒に食うんだろ!?」ちょっと声を荒げてしまったけど、まぁ、仕方がないなとヴィルフリートもわかってくれたようだ。
しかし……少しばかり、その瞳に陰りが見える。
「でも、お前……ルシエルばかりじゃなくて、俺にも少し優しくしたっていいんじゃないか?それだけいい残し、ヴィルフリートは部屋に戻って行った。
キュンキュンきたんじゃなくて、胸にザクッと。グサッと。
なんだか、ヴィルフリートを傷つけてしまったようだ。
なんとか……なんとかしなくちゃ……!
でも、なんとかってどうやってなんとかしよう……。
悩んでも答えは出ない事だけど、これはちゃんとしなくちゃいけないことだ。
うきうきしたルシさんがやってきた後も、ルシさんとの食事中も、そのことばかりが頭の中を巡っていた。