カイン達はリフラムの関所前へ無事に転移し、フィーアの執務館へ到着した際、彼女はすぐに出迎えてはくれなかった。
それどころか館内の様子は少々慌ただしく、そう広くもない玄関前は魔導具を抱えた者が行き来している。
「すまない、何かあったのだろうか」通りがかった魔術師らしき男を捕まえて尋ねてみると、魔法陣の書き換えをしなければならないという、実に要領を得ない返答だった。
更にどうしてなのかと問うても、この男も事の顛末まではよく分かっていないそうだ。
釈然としないままカインは男を解放し、メイドに案内された応接の間で待機して数十分後――。
ようやく館の主であるフィーアが姿を見せた。
怪訝そうな声を発したカインは、彼女の出で立ち……あの緩く巻かれた髪が崩れてぼろぼろになっていることや、腕に擦り傷があることを指摘する。
「ええ、少々こちらで……あら、キョウスケさん、貴方随分血まみれですが、お怪我は大丈夫ですの?」気丈なフィーアが言葉を濁しつつ、恭介の怪我を見て『互いにイレギュラーがあったようですね』と口にした。
「はは、面目ない。傷口は塞がっていますのでご安心を。恭介は右目を押さえ、何かを堪えるように、そして何かに集中しているかのように床の一点を睨んだままだ。
「大丈夫か? どこか……目とか痛むんなら」心配そうな表情を浮かべて恭介の肩へ手を置き、様子を伺うレティシスに微笑むと、すぐに自身の鞄から緑色の本――ルフティガルド戦争――を取り出し、ぱらぱらとページをめくる。
その奇妙な行動をフィーアは何も言わず容認しているが、カインたちは何事かと互いに顔を見合わせ、ただ恭介の行動を見守るだけだ。
恭介はページを送っていた手を止め、ある箇所を読み始めた。
「……シェリア様が『試練の鏡』で倒れた」恭介がそう口にすると、フィーアが目を閉じて沈痛な顔で首肯し、反対にカインは目を見開く。
「なん……シェリアが倒れたって、一体どういうことなんだよ! あんた、シェリアに何したんだ!!」カインが何かを言うよりも早くレティシスが身を乗り出してフィーアに抗議するのだが、それをラーズに止しなさいと宥められる。
「でも、ラーズさん……!」そう言ったラーズでさえ、冷静であろうと取り繕っているのが目に見える。
そんなラーズの心境を慮ったレティシスは、微動だにせずフィーアの言葉を待つカインをちらりと見てから唇を噛み、元の姿勢に戻った。
すると、カインがゆっくりと口を開いた。
「……試練の鏡、とはなんだ」カインの声は抑揚がなく、ただ淡々と尋ねてくるが――フィーアはその態度に異様さを感じ、背筋が凍るような感覚すら覚えた。
だが、ここで怯んでいる場合ではない。フィーアは再び気を落ち着かせ、カインの問いに答える。
「……この国の王家が、己が心の弱さと向き合う場所を【試練の鏡】と呼ぶのですわ。そうしてフィーアが説明した顛末は、シェリアが法陣に中に入り自分の心、そして心の世界と向き合ううちに、感情を抑えきれず魔力を暴走させるに至ったのだ、という。
暴走を食い止めるため魔力介入したフィーアもまた、多少なりとも傷を負ったようだが――当のシェリアは大きな外傷は無く、気を失って眠っているとのことだ。
「シェリアの意識は戻るのでしょうか」ラーズはフィーアが尽力してくれたことも承知した上でそのように聞いてみるが、フィーアは浮かぬ顔。
「……無事であると、信じています」返事は弱々しく、その場にいる者――しかし恭介以外――の心に暗い影を落とし、不安にさせた。
ただ一人平然としている恭介は再び緑の本のページをめくると、柔らかい声で『大丈夫だよ』と告げて一同の顔を見る。
「シェリア様は、夕方には目を覚ます。これは絶対だ。これには棘のある口調でカインも反論する。
「確かにそうあって欲しいが、なぜそんな確証もないことを確実だと言いきれる? シェリアの具合がその本にでも書いてあるというのか」心の内でも見透かすかのような恭介の黒瞳はカインを捉え、一度瞬きをした後、悪意なくゆっくりと細められる。
にこりと微笑む恭介にカインは奇妙なものを感じたが、確か恭介は帰ってきたら『全てを話す』と言っていた事を思い出した。
ここでフィーアは自分側の事情ばかり話していたことに気がついたようだ。
「あら、失礼……貴方がたがここへ戻ってきたということは、宝珠は回収できたのですね。怪我を負うほどに激しい戦闘があったのでしょう?」フィーアの表情は瞬時に強張り、思わず椅子から身を乗り出した。
が、恭介はフィーアの前に進み出ると、ご安心下さいと言って布に包まれた宝珠を差し出した。
宝珠はまだ拭ききれなかった血痕が残っていたが、丁寧に手入れをすれば取れるだろう。
「結論から言えば、この通り宝珠は回収致しましたよ。そうして恭介はレナードを振り返り、視線が自身に集中した彼はそこから逃れるように俯く。
中でも、カインの視線はレナードにとって痛いものだった。
「レナードさん……ですね? ご苦労でした」労りの言葉を寄越すフィーアの声。レナードの胸は締め付けられるような切ない痛みを感じ、レナードは無意識に胸に手を当て、外套を握りしめる。
「わたしのような者に、そのようなお言葉を賜り……恐悦至極に存じます」フィーアはそうして小さく笑ったが、レナードの様子を見つめる恭介はこの仮面の男に、聞いてみたいことが山のようにあった。
ただ、この男には何らかの目標があり、会ったばかりの他人が尋ねたところで口にはしないだろう――ということも同時に感じている。
フィーアは黒髪の男の名を呼び、彼もフィーアに視線を戻す。
「貴方の能力で視た通りに、事は運ばなかったようですわね」恭介は唇を引き結び、緑の本をきつく握った。
悔しいのだろうか、とカインはふと思う。
あの本に何があるのか、彼の能力というのはどういうものなのか、それをフィーアは知っている。
そこに策謀があるのでは無いかと疑問を抱き、カインは口を開いた。
「王女、少々伺いたい」カインがフィーアを射るような眼差しで見つめ、彼女はそれを真っ向から受け止める。
「わたくしたちは何も仕組んでいません。本当です」恭介の言葉に、そうしてくださるとありがたいとフィーアも答えてから、納得がいかない様子のカインに申し訳ございませんと謝罪する。
「今ここでお話しすることも可能ですが……明日、きちんと全てご説明致します。力強く頷くフィーアに、カインは頷きを返し、立ち上がる。
「お待ちを、カイン様……侍女に案内させます」背を向けたカインに、そうではございませんわと薄く笑むフィーアは、中庭の方向を指す。
「眠り姫を起こすのは、皇子様のお役目でしょう……鍵を持ってこさせましょう、と言っているのです」そこでカインの歩は止まり、返答と見なしたフィーアは握っていた手を軽く開く。
手に握り込んでいた小さな銀の鈴を親指と人差し指で摘まみ、りん――と鳴らしたのだった。
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