食事を終え、少しゆっくりと会話などを楽しんだ後……リネットは『そろそろ準備を致しましょう』とアヤへ声をかけた。
「……もうそんな時間なの? それじゃあ、私着替えてきます」席を立ってレスターにそう言った瞬間、アヤの頭の中で、現実に見ていたかのように鮮明な映像が見える。
アヤが緑色のドレスに袖を通し、リネットに細かいところを整えてもらっていると、
突如窓ガラスが割られて黒ずくめの人間が侵入してくる――という映像だった。
「……!?」思わず顔をこわばらせたアヤを見て、レスターがどうしたのですか、と心配そうに尋ねる。
「何か、おかしなものでも……『視た』のですか?」先程ルエリアの執務室に居た時にも、アヤはどうやら侍女の到来を言い当てたようだった。
だから、もしかしたらまた予知でもしたのかとレスターは思ったのだ。
「あ……いえ。多分気のせいです。しかし、心配をかけたくなかったのだろう。
アヤは無理やり笑顔を作ると、ドレスを片手に満面の笑みを浮かべたリネットが待っているであろう寝室の方へと歩いていった。
椅子に座ったまま、それをじっと眺めていたレスターはテーブルに片手をつきつつ、音を立てないように椅子を引いて立ち上がる。
閉められた寝室の扉近くに立つと、あらかじめ危険感知の魔法を唱え、腰の帯剣にも手をかけていた。
先ほどのアヤは一瞬だったとしても怯えたような顔をしていたから、心配するなといってくれたにしろ何かあっては取り返しがつかない。
「レスター……そんな気合入れて聞き耳立てなくても」準備しているのは覗こうとしているためだからじゃない、と訂正してから、レスターは再び気を落ち着け、いつでも飛び出せるような体勢で待機する。
「それで、この四つの中から選ぼうと思っているのですけど……」リネットがそばに持ってきて見せてくれたのは、どれもこれも甲乙つけがたい素敵なドレスだった。
(……これだ……)しかし、その中に……アヤが『視た』色のドレスがある。
デザインも色も好みのものだったが、先ほど『視た』光景が忘れられず、アヤはそれを嫌い、本心から悪いと思いつつ『ごめんなさい』と緑色のドレスをベッドにそっと置いた。
「これは凄く素敵なんだけど……その、これを着たいような気分じゃなくて……この3つから選んで、いいかな……」選んでくれたリネットの気分を害さないようにしつつ自分の意見を加えてみたが、リネットは少しばかり落胆したようだ。
「緑色、お似合いかと思ったのですが……それでは、こちらのどれから――」リネットの悲しそうな顔に耐え切れず、アヤはうっかりそう口走ってしまった……。
「え、でも……」笑うのも厳しい心理状態だったが、今まで見立ててくれたリネットの目は確かだったし、ドレス自体は好みのものでもある。
それに何度も短時間で予知などできるはずもないだろうし、内容も不吉なものだったのでアヤ自身は『視えた事は気のせい』だと思いたかった。
ふるふると頭を振って恐怖を追い出すと、身に着けていた上着に手をかけて脱ぐ。
途中からはリネットも手伝ってくれた。
「……あの、じゃあ、その緑のものから……」白い下着姿のまま、アヤは緑色のドレスを指す。
嫌な気持ちは先に終わらせておきたい。
これが違いさえすれば何も問題などないのだ。
リネットも素直にハイと頷いて、緑色のドレスを持ってくると、アヤに着せ始めた。
どきどきと、心臓が高鳴る。しかし鼓動は期待に満ちたそれではなく、纏わりつくのは不安だけ。
伏せ目がちに鏡を見つめ、時折ちらりと窓に目をやるのだが、怖くて1秒たりとも見つめていられない。
ドレスなどにはファスナーというものなどついていないため、紐で体に合うように調節をする。
「――よし、これで」紐を結ったリネットが満足そうに頷き、アヤは自分が不安そうな顔をしているのを見せぬよう努めながらリネットのほうを向いて、似合う? と尋ねる。
「はい、勿論お似合いですよ!」さすがアヤ様です、と会心の笑みを見せるリネットに、思わず形ばかりの笑顔を向けると――
思わず身を竦めるほどにけたたましい音を立てて、窓ガラスが割られた。
はっと振り向いたアヤが見たものは、絨毯の上に散らされた窓ガラスの破片と、脳内での映像と同じ――
――頭から足先まで、黒い服や布で覆われている人間の姿だった。
恐怖が理性と我慢を上回って、もう耐え切れなくなった。
黒ずくめの人物は悲鳴を上げるため息を吸ったアヤを目ざとく見つけ、素早く室内に侵入すると、短剣を抜いて向かってくる。
「姫!」だが、そこで居間へ続く扉が開いたかと思うとレスターの声が聞こえた。
騎士は剣を引き抜き、アヤの前へと滑りこむように立ちふさがる。
レスターの剣と、侵入者の短刀がぶつかり合って甲高く響く。
短刀を弾き返し、一歩踏み込んだ剣が一閃される。
しかし僅かに速く黒ずくめの人物……体格的に男であろうそれは後方に飛び退いており、紙一重で一撃を躱していた。
「――何者だ。誰の差金でこのような無礼を働く?」剣を向けたまま眼光鋭く男を睨むレスター。
彼の後方でアヤとリネットは恐怖を押しとどめるように抱き合ったまま、怯えた顔でレスターと男のやり取りを見つめている。
暫し待ったが、相手からの返答が無いので、捕縛するしかないと感じたレスターは剣を握り直し、
男へと近づこうとするが――窓ガラスの破片をレスターに向かって蹴り飛ばすと、後退して逃げ出した。
「姫、リネット殿、無事か!?」破片を剣で弾き、窓の外を憎々しげに見たが……アヤたちのことを考えると追いかけることはできず、安全を第一に考えてアヤとリネットの側へ戻ってくるレスター。
アヤの顔は真っ青で、幼鳥のように身体を震わせていた。
鞘へ剣を収め、アヤの前に屈むとゆっくり手を伸ばして肩に手を置き、怪我はと尋ねる。
返事はなかったが、横に首を振って問題ないことを告げていた。
そうしてアヤを抱きしめると、彼女はよほど怖かったのだろう。
ぎゅぅとレスターの身体にしがみつき、胸に顔を寄せている。
命を狙われていたのか、ただの脅しだったのか? それはアヤにも分からなかったが、確かなのは――
レスターが来てくれなければリネットもアヤも無事では済まなかったということだ。
それを思うと、アヤは恐ろしくてたまらなかった。
「レスター様、危ないところをありがとうございます……あの、わ、わたし……ヒューバート様に、報告を……」リネットも怖いだろうに、気丈に振舞おうと立ち上がったが、イネスがそれを押し留めて自分が行ってきますと微笑んだ。
「ヒューバート様はどちらに?」早足で部屋を出ていったイネスを見送り、先ほどのショックが大きくて、もう部屋には居たくないだろうと考慮したレスターは二人を連れて居間に入る。
こういう時は茶でも出してやるほうがいいのだろうが、あいにく配分がわからない。
「わたしが、やります……」何かをしている方が落ち着きますから、とリネットが震える手で茶缶を受け取り、カップに入ったままの冷め切った茶を片づけ、準備する。
「……姫……」アヤは笑おうとしたがそれも出来ず、先ほどの光景が頭から離れない。
レスターがアヤの体ごと胸に抱き寄せてくれるが、彼の匂いと体温を感じつつ、アヤは拭い去れない恐怖を抱えていた。