【異世界の姫君/50話】

城壁には地上よりも強い風が吹いていた。

昨日の雨で、湿気を含んだ空気が壁を伝い上昇し、アヤの髪や上着をはためかせる。

通路のくぼみなどに水が溜まっているところもあるため、レスターがアヤの足元を見て注意しながら手を引いていた。

「あれ? レスター様……に……ま、まさか姫様!?」

遠鏡で遠くを覗いていた兵士は、突如噂の二人が現れたことに遠鏡を取り落としそうになるほど驚いている。

「こ、こんなところに一体……?」
「ああ……姫が少々調べたいことがあるそうだからお連れした」

そう説明されても、兵士はドギマギしつつレスターからアヤに視線を移す。

黒く長い髪が風になびいて、彼女の白いうなじがあらわになると瞬きもせず一層食い入るように見つめたまま視線を逸らさない。

「…………?」

レスターは兵士に話しかけても返事がなく、一点をじっと見ているのが気になったようで視線を追うと――石壁に片手を添えて、顔にかかる髪を耳にかけて後ろに流すアヤの姿が目に入った。

兵士は満足そうな息を吐いたところで、自分をじっと見つめているレスターがいた事に気づくと、言葉にならない単語を散らしながら手をばたつかせている。

「何を言っているのかわからない。ともかく、姫に遠鏡をお貸ししろ」

言われたとおりに兵士が遠鏡を差し出すと、アヤは礼と共に受け取る。

細長い筒状のもので、これで遠くを見るらしい。いわば『遠めがね』と同じようなものだ。

上半身が出る程度の窓から景色を伺いながら、しばらくあちこちを覗いていたアヤは、遠鏡を顔から離して落胆の声を漏らした。

「やはり、まだちゃんと見えないみたい……残念です……」

しょんぼりした様子でレスターの側にやってくると、遠鏡を返却しながら見張り番の兵士に『少々お伺いしてもよろしいですか?』と尋ねると、これには即答で承諾の意を示す兵士に、レスターは面白くなさそうに頬を掻いた。

(……やはり、アヤにこのように話しかけられただけで大概は高揚してしまうのか……)

確かに当番制でもあるし、仕事が終われば帰って寝る、という生活では日頃女性と接する時間も少ないものだろう。

しかし、このようにわかりやすい反応だと、自分も第三者から見ればそうだったのではないかと恥ずかしくなってくる。

そんなレスターの気も知らず、アヤは慣れない筆記用具に戸惑いながらも、質問の返答をメモに記載していた。

「……それで、ここから見える範囲についてなのですけど、明るい場合はどのくらいまで遠くを見通せるんでしょうか」
「ええと……晴れていれば、この先にあるミラフォーデ山脈まで見通すことが可能です。
そうですね……距離にして200アスクくらいでしょうか……?」

距離の感じを兵士がレスターへ問いかけると、彼も『だいたいその範囲だと思う』と同意したため、恥をかかずに済んだとほっと胸を撫で下ろす。

しかし、アヤは『200アスク?』と記載したまま紙をじっと凝視している。

(ええ~……1アスクって、どれくらいなの?)

見知らぬ単位表現に困っていたが、恥を忍んで『1アスクは、普通の人が歩くと何分くらいですか』と聞いた。

レスターや兵士は不思議そうな顔をしつつも、だいたい15分前後だろうという回答を示す。

では、1アスクはだいたい1キロ換算でいいわけだ。

「……それならだいたいわかりました。じゃあ、すごく遠くまで見渡すことが出来るというわけですね」
「はい。物見の遠鏡は魔法の道具なので、このように特別遠くの場所まで見渡せますが……明るいうちだけです。暗くなれば、視界は一気に低下します。丁度、肉眼で確認できる範囲に城下町ハークレイを囲むような形で外壁と堀があるのですが、そこから20アスク程度しか見えないでしょう」

随分範囲が狭くなるものだとアヤは驚いて、なんとなく街らしきものが見えるあたりを注視した。

(20アスクって20キロ……としても、見えてから支度したら、間に合わないのかな……)

唇に人差し指を当てて、窓の外と己の考えに耽っていたが、その仕草にさえも見とれる兵士がいるので、レスターは『何をお考えですか』とアヤに尋ねる。

兵士は自分のことかと思い、勝手にビクついて身体を震わせていた。

「……あの。不謹慎なお話をして申し訳ないのですが……もし、敵が攻めて来たと仮定し、それが夜行われて、今お話のあった20アスクくらいの距離がある場合に敵がいると知らせる声が上がった場合……皆さんの迎撃態勢への仕度は整うのですか?」

それには、レスターだけではなく兵士の顔からも表情が消える。

「……アヤ……あなたは何を」
「…………」

レスターが信じられないという顔で、自分を見ている。

その視線は見えなくとも、見たくないので視線を逸らして己の腕を強く握ったアヤは、もう一度『失礼なお話をしているのは承知のうえです』と言い切って、己の考えを通している。

兵士も困ったようにレスターを見つめてくるので、レスターはアヤを暫く見つめた後『仕度は十分にできない』と苦しげに漏らした。

「20アスクという距離など無いようなものだ。馬の足が速ければ1分で1アスクは進む。ましてや、魔術で加速強化すれば風のように早い。15分程度では非戦闘者の避難はおろか、兵士の配置なども万全の体制を取れはしない」

それを聞いたアヤは、無言のまま眼を閉じた。

自分の肩を抱くと、わずかに震えているのが判った。

――やはり、夜襲が起こってはいけない。

レスターの心配だけでなく、城の手前に街があるのでは、街の人々も多くの血を流すことになってしまう。

そうして、ここがアヤ達が通ってきた通路で一番近い見張り台だ、と言っていたことを思い出し、再び目を開けて『城門の近くに出る見張り台はありますか』と尋ねると、レスターはあまり良い顔をしなかった。

「確かにありますが、何故そんな事を調べるのですか」
「私にとっては大事なことなんです。お願いします、教えて下さい」

アヤはレスターに頼み込むが、彼は苦い表情をしたまま許可を出してはくれない。

「……ちょっとこちらに」

アヤの腕を乱暴に取ると、引っ張りながら見張り台を出て城壁の角に連れてくる。

そこでアヤの腕を離すと一呼吸置いて、レスターはなるべく怒りを抑えつつ、アヤへ尋ねた。

「……一体どういうおつもりです。あなたがお調べされていることは、本当に我々の為になることなのですか?」
「レスター様達の為には……したいと思っています」

だが、レスターも『では、どういう考えでその調査を行なっているのですか』とアヤへ問うのだが、アヤは答えない。

「言えぬことですか」
「はい……」

アヤは話せない内容が多いな、とレスターの寂しげな表情と言葉は、アヤの胸にぐさりと突き刺さる。

「……ごめん……なさい……」

一人で抱えるには辛いことだったから、レスターに話せる内容であれば、とうにそうしている――そう言いたかったけれど、それすらも言えなかった。

「…………陛下の仰っていた、あなたの『予知』でそういった事柄が見えたのですか?」

レスターの問いにアヤはここで頷いていいのか、ダメなのかも分からなかった。

「アヤ。答えてください。どうなのです」

急かされつつ、アヤは逡巡した後――……僅かにこくりと首を縦に振った。


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