リリーと名乗った少女と初めて会った日から、彼女は私の憧れの女の子だった。
目を瞑れば、今だって出会いの瞬間を昨日のことのように思い出すことが出来る。
――王都から四日ほど馬車に乗って南西に進んだ商業都市、ラズール。
私はその頃ラズールの孤児院に住んでいて、名前も今の『アリアンヌ』ではなく『メルヴィ』と名乗っていた。
その日は確か、買い物を頼まれていたから大通りまで近道をしようと、さびれた練習場の前を通りかかったのがきっかけだ。
いつ出来たかも忘れた練習場は、木人形と壁に掛けられた弓矢のまとしかないし、場所も中途半端なところだから……いつも人がいない。
その割に施設は綺麗に掃除されている……のか、誰も使わないから綺麗なままなのかは分からないものだけど、とにかく私にとっては『小綺麗だけどいつも人がいない』という認識でしかない。
その日も、誰もいないと思ってその前を通りかかると……人がいる気配があった。
ガツガツと叩くような音も聞こえる。
珍しい。一体どんな人が練習しているんだろう、と思って通りすがりに練習しているであろう人たちを横目で見ると……なんと、私とあんまり年齢が変わらないくらいの子達。
男女一人ずつ。そのうちの男の子のほう、赤毛の、とってもかっこいい子が……剣で木人形相手に、ぎこちない手つきで訓練に励む。
木人形は何の反応もせずに斬られ続けているだけなのに、男の子は飽きることなく剣をあちらの角度、こちらの角度と考えながら当てていた。
武器を持って戦ったりする経験はもちろん私には無くて、ただ見ているだけだけど『本当にこれって訓練になるのかな』と思ったけど……それでも一生懸命練習し続ける男の子には、偉いなあという僅かな尊敬と、ほんの少しの好感が持てる。
でも、整いすぎているその顔はお人形さんより綺麗だから、ちょっと怖くて好きになれそうにない。
「あっ……」
弓のまとのほうから予期せぬ事が起こったような、弱々しい声がしたので……今度は視線を女の子に向けた。
ここからだと後ろ姿……ウェーブヘアに近いくらいのゆる巻きにされた銀髪と、青い服の女の子である、としかわからない。
ただ、弓を構えた手が下がっていたので……矢はどこなのかと、白黒の円が交互にいくつも描かれたまとを確認すると、その部分に矢は刺さっていない。
まとから遠く離れた場所に矢が刺さっていたので、たぶん、ハズしたのを落胆した声だったみたい。
肩を落としながらも、次々に矢を射っていく女の子。
弓の持ち方、動作とかも私には善し悪しが分からないけど、この子もまた不慣れっぽいのが見ていて分かる。
矢が全く当たらなくても諦めず、何本も何本も狙って撃ち……とん、と、まとに当たった瞬間。
女の子の肩がびくんと跳ね、すぐに男の子を呼んでいた。
「見てください! 中心に当たりましたの!」
「――すごいじゃないか!」
と、二人は微笑みあって喜んでいる。とてもかわいい……特に女の子。
矢を一本当てたっていう事実だけでこんなに喜んでいる。素直な人なんだとも感じたし、この男の子が女の子にとって特別なのか……彼に向ける笑顔もすごく可愛かった。
なんか、いいなあ……。
「……ん?」
じっと見つめすぎたせいか、女の子はこちらを向いた。ばちっと目が合う。
覗いてたことを怒られるんじゃないかと慌てて視線をそらした。
ここから逃げ出そうか考えて、一歩後ろに下がって……でも、何も悪いことはしていないのだから大丈夫、と自分に言い聞かせる。
「あ、大丈夫ですわ。見ていたことを怒ろうとしたわけではございませんの。ただ、誰かの視線を感じただけで……」
そう言いながら近づいてくる少女。ふわふわと髪が風になびいて、それがこの子を一層可憐に見せた。
着ているものも上等なものだし、どこかのお嬢様なのかな……と思っていると彼女はフェンス越しに目の前に立って、きゅっと気丈そうな青い瞳で私を見据えながらも優しそうに微笑んでくれている。
弓を射るのも大変だったらしく、額や首元に、玉のような汗が浮かんでいた。
「あ……びっくりさせて、ごめんなさい……」
うまく言葉が出なくて、小声でそう言うのがやっとだったのに、気にしていないと女の子はかぶりを振った。
「わたくしが射るのをずっと見ていましたの……?」
「はい……」
そう頷くと、女の子ははっと息を呑んだ。
あっ、じっと見ていて気持ち悪いと今度こそ怒られるかもしれない……!
「ふふ、わたくし全然当てられなかったでしょう? でも、頑張っていたら今、当てることができて……なんて嬉しいのでしょう……!」
ふわぁっ、と、女の子は華やかな笑みを浮かべた。
その可憐さが――……とてもまぶしいのと、よく分からないけど……女の子相手にすごく胸がどきどきして、私は彼女から視線を背け、祝福の言葉を贈るしかできなかった。
「ありがとうございます」
連れ以外に賛辞を貰って嬉しい――……というようなことを言って、少女は離れていく。
可愛い子って歩く姿も可愛い……。
ちょっと残り香も甘いような、お花みたいな良い匂いするし……家の人からも絶対大事にされているんだろうな、と思った。
いろいろお話ししたい。お友達になりたいな、って思ったけど、住む世界が違うって事はそれだけで無理だ。身分ってほんと残酷だなあ……。
その後ろ姿をぽーっと見ていると、目の前に影が出来て……あの赤毛の男の子が立っていることに気づく。
えっ、なんだろう。どうして、面白くなさそうな顔をして……あれ、怒ってる?
「――……まだ、なにか用か?」
用がなかったら早くどっかいけ、とその青い目は如実に語っていて……。
言い知れぬ迫力に、私は立ち去る(ように逃げ出す)しかなかった。
――……あの子、一緒にいるときに邪魔されたくないんだな。
あの子に好意を持って近づくやつはみんな好きじゃないんだなーって、なぜか理解できたし……この数年後、クリフォードさまとこの男の子、レトさんが犬猿の仲……ううん、不倶戴天の敵であるというのを目の当たりにし、このとき感じたものは正しかったのだと断言できる。
その出会いから数週間。
またその女の子を街で何度か見かける機会があって……思い切って話しかけてみたら、交流することが出来るまでになった。
リリーだと名乗る女の子を、会うたびに好きになっていって、意を決して友達になりたいと言ったとき、彼女はなぜか悲しそうな顔をする。
お友達になれないのか、そう尋ねても――明確な答えはなかった。
そうして、奇異な縁からローレンシュタイン家の養女として認められたとき、私はとても嬉しかったんだけど、リリーさまから……軽蔑したような表情を向けられた。
そんなことになった発端は『貴族の娘を探している』という男の人と会ってからだ。
その人が危険な人かどうかも分からなかったのに、私は……今思えば勘違いだったって分かるけど『貴族の娘になる子を探している』のだと思って……『私がそうです』と言って、誰にも目的や行き先を告げずに孤児院を勝手に出て、王都まで連れて行ってもらった。
途中で『リリーティアか』と聞かれたときには、相手が何を言っているか分からなかったから首を傾げると……記憶喪失だったなと言われて、それ以降特に質問もなかったから、それっきり気にはしなかった。
確認に訪れたローレンシュタイン家の当主と一緒にクリフォードさまは、当然私を見て『リリーティアではない』と驚いていた。そう、リリーさまは銀髪だし、私は金髪だもん。まずそこから全然違う。
そのとき、ローレンシュタイン伯爵は『リリーはどこに……』と嘆いていたので、もしやと思って『リリーティアさんはリリーと名乗っているかもしれません』と、詳細をお話しした。
本来なら貴族を騙ったとして重罪になるところを、リリーさまが無事であり、ラズールによくいる、という情報に免じて許して貰い……何を思ったのかクリフォードさまから半ば強制的に、ローレンシュタインの養女にと推して貰った。
そんなゴタゴタがあって……私が貴族の娘になったのは奇跡みたいなもんだし、嬉しかったけど……リリーさまからすれば、家を飛び出したとはいえ、知り合いが自分のことをだしに使って養女にまで成り上がった。
良い気持ちじゃないどころか、私はリリーさまから憎まれてもおかしくない。
「アリアンヌさん……あなたとわたくしが再会することがないよう、そして、あなたの本当の幸せを――世界でいちばん遠い場所からお祈りしておきますわね」
それが決定的だったかどうかは分からない。でも当然、リリーさまはそうして別れ……ううん、ほぼ絶縁の口上を告げて、ジャンさんとレトさんを連れ、私の前から去ったのだ。
私は彼女に認めてもらえるような存在になりたかった。それだけなのに。
私はそのときどうしてリリーさまと一緒にいられないのか分からなかった。
だけど、だんだん……リリーさまが怒った気持ちも、とんでもないことをしてしまったという気持ちも出て、恐ろしさに震えた。
こんなはずじゃなかった……ごめんなさいという声ももう届かない。
嗚咽と悲鳴が喉に詰まって、しばらくは何も考えたくなかった。
近づきたい一心で行動して、大事にしたい人の情を失ってしまった。
彼女を傷つけてしまった。自分を何度も責めても、あの楽しかった時間は戻ってこない。
何度も彼女に手紙を書いた。どこに送って良いか分からないからラズールの魔術屋さんに送ったら、返事は一回だけ届いた。
魔術屋さんにまで迷惑を掛けるなという素っ気ないものだったけど、彼女から送ってきたものというのが嬉しいので、何年も経った今も大事に持っている。
そして数年が経ち……リリーさまにとっては不本意でしかないだろう実家に戻ってきた日……早く会いたくて、お父様より先に偶然を装って応接室に入った。
見慣れたマクシミリアン様より早くお話ししたかったけど、公爵様だからないがしろにできず、先にご挨拶して……高まる期待と興奮を抑えつつ、リリーさま……ううん、リリーティアお姉様を見つめた。
そういえば、お姉様ってすごくいい響き……。
幼い頃の記憶を失っているというお姉様。
その憂いある雰囲気と淑やかさが相まって、なんだか儚げで神秘的にすら感じる物腰。
元々可愛かったのに、お年頃になったお姉様は益々美しくなっていた。
これでも……あまり着飾ってもいないし、お化粧もほぼ、していない。
していないのにこの美しさは、ちょっと……ううん、絶対よくない。
これはレトさんも気が気じゃないだろうなあ、よくここに送り出したなあ……と思った。もしや本当に別れたのかな?
――いいや、そんなわけない。
いつでも誰と一緒でもお姉様ラブを隠さなかったくせに、何年も一緒にいたお姉様を捨てたんだったら、週の中日にラズールに乗り込んで、あの男の首を締め上げてやるんだから!
そもそもどうしてお姉様を手放して……! あ、でもそうしたから今こうしてお会いできているのであって……うむむ……。
……ちょっとムカついていたとき、お姉様の後ろに立っている人が、ジャン……とかいう人だって事に気づいた。
一回だけ見たことがある。
それに、事前の情報だと彼は有名なところの剣士の出だというし、お姉様も彼を護衛にするって条件を入れていたというし……彼を取ってレトさんを捨てた、ということも……多分ないだろう、と思う。
だから、レトさんはクリフォードさまの事もあって来ることができなかった。だからお姉様のお供にジャンさんが来た……と判断しておこう。
お姉様があまりに素敵すぎたので、お声がけして私一人興奮してキャッキャとはしゃいでしまったが、お父様とお母様が来て、お姉様はお詫びの言葉と共にお久しぶりですと一礼する。
でも、両親はやっぱり嬉しそうじゃなくて、マクシミリアン様も複雑そうな顔をされている。これも予期していたのか、顔色を変えないのはお姉様とジャンさんだけだ。
これでも、両親はお姉様が戻ってくると聞いて直前まで嬉しそうな顔をしていた。
ただ……やっぱり、記憶が戻っていなかったらどうしようという話をされていて、お父様は考えたくないといっていた。
だから、お姉様の記憶がお戻りになっていないことは、一緒に過ごしてきた日々を消されたみたいな心境で……両親は本当に落胆しているみたいだ。
お姉様は愛するレトさんと涙を呑んで離れてきたというのに、クリフォードさまに愛のない言葉を吐かれ(お姉様も嫌味を言うのでお互い様だと思うけど)マクシミリアン様に監視される生活になる……そして学院を卒業したら即結婚。かもしれない。
「卒業時にクリフ王子との結婚が決まらなければ、今度こそそのまま除籍していただいて構いません」
お姉様がそんなことを口にするので、私は急に目の前が真っ暗になるようだった。
え? 除籍されたら、お姉様は家から出て行くわけでしょ?
クリフォードさまと結婚しても、それはそれで家から出て行くし……。
だいいち、私とクリフォードさまが結婚できそうにないっていう可能性が上がるのも悲しい。
「お姉様、そんなこと仰らないで!」
私が取りすがるも、お姉様は迷惑そうな顔を向けるだけだ。
お姉様がクリフォードさまを好いているならそれはしょうがないって思えるけど、好きでもない男と結婚するために悲しみにくれながら花嫁姿で教会に立って……なんて想像しただけで……あ、ちょっと……そこだけ見たい。
でも、絶対だめ! 式の途中でレトさんが乱入するとかしないと絶対だめっ!
多分、あのお顔で『リリーは俺とじゃないと結婚させてあげない』って微笑みを浮かべて連れ去れば参列者の女性達も、一部の男性もコロリといくはず。
その声と笑顔を至近距離で浴びるお姉様は即死だろう。おめでとうございます。
参列者もなんだかわからないけどしょうがないな、おめでとー! って、思ってくれると思う。
ただ、それを実現できる可能性を考えないといけないし……。
あ、そうか。
私が、お姉様の味方になってあげれば良いよね!?
クリフォードさまと私が結婚するためでもあるし、レトさんに会ったらお姉様との関係をちゃんとどこまで考えてるか聞いておかないといけない。
ジャンさんはちゃんと働いてくれるのか分からないし、これって超・名・案! かも……。
協力できればお姉様と四六時中一緒にいられるし、よこしまな感情を抱く奴からお姉様を守れるし、クリフォードさまとお会いできる時間も増える。うわぉ。万事最高かも。
よし、お姉様。私頑張りますね!
お友達になりたいって思っていた当時とは形が変わっても、お姉様は私の憧れで目標ってところは変わりありません。
――もういっかい、夢を見ても良いですか?