【ルフティガルド戦乱/35話】

希望というのは、奇跡と似ている。

幾重にも張り巡らされた【運命】という試練の奸計をすり抜け、その先へ手を伸ばすのだ。

望みを手にして自らの歩みを振り返ったとき、今まで何を失い、ここまでに何を遺してきたのか。

そして、手中に収めたものが自分の望んでいた形ではなかったなら――それは一体【何】なのだろうか。


あれは数年前のことだ。カインは初陣――アルガレス南部で遭遇した巨人のような体躯の魔物――の攻撃で重傷を負った。

手負いの魔物が、手近にいたカインの身体を掴み、崖に向かって放り投げたのだという。

当然軍は大きな混乱に晒され、即座にカインの捜索が行われた。

しばらくの後崖下で大量の血液を流したまま動かないカインを発見したが、医師も治療を行うのが極めて困難だったらしい、と父であるルドウェルは言っていた。

それほど彼の身体は損傷が大きく、生きているのも奇跡……ルァンの祝福があってこそ助かったのだともいうが、まだ予断は許されない状況のようで、面会者もごく一部に限られていた。

ラーズも暫くはカインに会う事を許されなかったし、シェリアは何度頼んでも取り合って貰えないまま、恨めしそうな目を父の背に向けていたのを覚えている。

ようやく面会を許されたとき、身体はおろか、顔の大半を包帯で覆われ、顔貌も見えぬ状態でベッドに寝かされているあまりにも痛々しい姿。

本当にこれは皇子なのかとラーズも一瞬疑念を持ったが、感情によって深い蒼に変わるその特徴的な瞳の色合いは紛れもなくカインのものだ。

体力的な問題から魔法医療を行うことを禁じられているらしく、医師による治療しか行われていないため、治療も長くかかるだろうと予想できた。


『ラーズ。オレ、は――オレなんだろうか』

会話をすることも辛いというのに、カインは擦れた声でラーズにそう告げた。

怪我が癒えるとしてもまた動けるようになるかは分からない。それは、カイン本人が一番良く分かっていることだろう。このように、弱音を吐きたがるのも無理はない。

だが、そんなカインにラーズはなんと答えて良いのか分からない。質問の意味も計りかねるものであったし、ラーズは押し黙るほかなかった。

彼は深く傷ついているはずだ。絶対に良くなる、また剣を握ることが出来るはず――など、損傷の程度も分からず適当なことは言いたくなかったし、カイン自体そんなことをラーズに言ってほしくはないだろう。

きっと、どのような答えも望まれていない。だから……ラーズは、他の話題に切り替えることにした。

『……シェリアは皇子に面会が出来ないのを至極残念がっていました。どうか快癒しますようにと、ルァン様に祈りを捧げています』

ラーズがそう告げると、カインは鼻で笑った。

『くだらない。祝福があったらなんだというんだ。こんな身体になっているんだぞ』

くだらないというのは自分自身に対してのようでもあったし、祈りを捧げているシェリアに対してのようでもあった。

『……オレのことなど認識できないさ。もう会えないかもしれないしな』
『そんな事を仰いますな。シェリアだって婚約者の顔を忘れるほど――』
『婚約者、か。そうだったな、あいつはオレが選んだ』

カインの言葉には自嘲するような、悔やむような、そして今までそれすら忘れていたような、そんな響きがあった。

『カイン様』
『……だから、呪われるんじゃないか』

ラーズが怪訝そうな顔でカインの表情を伺ったときには、カインは瞼を閉じ、表情の変化が見えない。

『オレが――即死であれば全て済んだ』

その声は、震えていた。



昔の事を思い出し、ラーズはゆっくりと瞼を開ける。

あの後、カインは医師も驚くような回復力を見せ、数日後にはベッドから起き上がることが可能になっていた。

一月後にはもう城内を歩いていたし、精神的にも肉体的にも後遺症のようなものは見当たらず、奇跡としか言いようのない復帰を果たしたのだ。

『……病というのは良くないな、気も滅入るが、無礼を言った事を詫びる』

カインはそうして謝罪してくれたが、あのときのことは忘れてくれとも告げた。

『怪我をすれば、心は自分でも不思議なほど安定しないものだな』

今更その当時を思い出すのは何故なのだろう。

ベルクラフトにいると思われるシェリアの事か、それとも……母のことも心配だからか。

シェリアも母も生きている……と、ラーズは信じている。むしろ自分が信じなければ、家族は誰も彼女たちを思わなくなってしまう。

それに、当初リエルトがラーズにだけ見せた書状……それは、未来の自分が過去の自分……つまり今のラーズへ宛てたもの。

『信じられないかもしれないが、わたしは36歳のラーズ・イリスクラフト。
この書状を携えてレナードと名乗る青年は、君の甥にあたるリエルト皇子。そう、シェリアとカイン皇子の実の息子が成長した姿だ。
突然のことで事態を把握しきれないと思うが、過去のわたしに頼みがある。とても重要なことだ。
カイン様と、リエルト……そして、叶うことならシェリアを救って欲しい。
シェリアは旅の途中で行方不明になってしまう。ありとあらゆる手段を用いて捜索したが、発見することは出来なかった。
失踪してから10年後、アルガレスに顔を出すが……妹はアルガレスを滅亡させんと殺戮の限りを尽くし、王家の者を手にかけてしまう。
そして、わたしは変貌してしまった妹をこの手にかけ――王家を惨殺した者の一族として、わたしや家族も処刑されることとなるだろう。
いずれ、リエルトから10年後のアルガレスを聞かされることもあるかもしれない。彼はシェリアを憎んでいて、少々危ういところがある。
未来は変わらないものだとしても、リエルトの手によって何かが大きく変わることもあるかもしれない。
未来を変えようとするなと忠告したが、どうか二人のことを気にして欲しい。
カイン様に付き従い、リエルトを庇い、シェリアを守るという生活は想像を超える苦しさだと思うが、恐らくこれはわたしにしか頼めない。
そして、もしもできるなら――母のことも、探してみてほしい』

未来の自分からそう訥々と書かれては、ラーズも請け負わざるを得ないというものだ。

そして、事実このような事態が起きてしまっている。恭介も記述が変わったと血相を変えていた。きっと従来の未来とは何かが変わっていくのだろう。


――ルァン様、母上。わたしが見つけるまで……シェリアをどうか悪しきものよりお守りください。

ラーズは知らない。

リエルトと共に、いや、彼らが倉庫の守りとして船に誘い入れた羽猫がルァンであることを。

そして、ランシールはその心身をアルガレス王家とベルクラフト一族への憎悪に焦がしていることを。



そうしてラーズが祈りを捧げている後方では、少々ややこしいことになっている。

「ぅう……こんな美人見たことない……」
「ていうか男であることが勿体ない……」

ミュリエルとイルメラは化粧ブラシを握りしめたまま、それぞれ本心からの賛辞を目の前の人物へ投げかけた。

だが、その人物は椅子に座ったまま不機嫌かつ苛立った顔つきで二人を見上げているため、その美貌は残念ながら多少損なわれている。

「オレはこんなことをするために座っているわけではないのだが」

投げやりな絶世の美女……その声は紛れもなく男だった。正確に言えば、カインの声だった。

元々中性的な顔立ちであり、髭も薄く化粧は楽で、多少アイラインとリップを塗る程度で十分だったようだ。

「だって、そのままじゃ出かけられないし」

イルメラは目を輝かせて疑似耳――耳の先端が尖っているもの――をカインの本来の耳にかぶせ、長い金のかつらを持ってくる。

レティシスは笑いを堪えつつその一部始終を眺めているのだが、幾度カインに睨まれたか分からない。

「俺アルガレスに配達に行ったとき、結構ごついおばさん見たけど、十分カインさんのほうがかわいいぞ」
「恰幅が良いのと背丈は違う」
「いや、男みたいなおばさん。男と混ざっていても分からない感じだった」

仕上げとして粉をブラシではたかれ、カインは煩わしげに唸る。

ぱっと見たところ……尖った耳の効果もあるせいか、顔はエルフの女性に見えなくもない。だが本人が言うとおり、女性にしては少々肩幅が広く、背が大きい。

「……魔法で誤魔化すよりは変装の方がずっといいから」

ミュリエルは『変装』という聞き心地の良い言葉を使うが、これはいわゆる『女装』である。

カインの前に鏡が差し出されたが、彼は自分がどうなっているのかを見る気にもならず、卓上に伏せるとカゴに入れられた青色の服を見て辟易する。

一枚で着ることの出来る長衣だが、女が好んで着るタイプのものだ。

「……確かに、誰も王族が女装して歩いているとは露にも思わないだろうな」
「名案でしょ~?」
「最悪だ。せめて兜でも――」

兜でもあれば事足りるのに。そう言おうとしてカインはレナードのことを思い出し、言葉を切るかのように奥歯を噛み締める。

最初からあの男は気に入らなかった。顔も名前も出自も不明だが、アルガレスでは珍しい部類にある魔術を扱い、なおかつ所持すら限定されている銃を扱える人物など、上層……ましてや王族の耳に入らないわけがない。

そして、何より『シェリアを殺そうとしたが、彼女自ら胸を刺した』という……不可解かつ拙い説明。

シェリアは何を吹き込まれ、自殺を強要されたというのか。なぜ、シェリアを憎んでいながらレナード自ら刺殺しなかったのか。

ラーズは、レナードを縁のある者だと言っていたがイリスクラフトの一族は血脈と名の拡散を好まないはずの家で、親族は本当に少ない。

年端の近い親類がいるならば、ラーズの話にも上がってきたはずだ。だが、一度もそんなことはなかった。

「じゃあこれ着て、ください……大丈夫、下は履いたままでいいです……」
「かわりにベルトはギュッと巻いて、くびれ感を出そう!」

楽しそうな様子で服を着せようとするイルメラたちを極力無視し、カインは思考を続ける。

恐らく、今まで見てきた感じからラーズはレナード本人をよく知らないと思われる。レナードも、イリスクラフトの屋敷を訪ねた事は無いだろう。

もしもそれがあったのなら、自室以外ラーズの部屋と書室程度しか行くところのなかったシェリアも何かしら反応を見せるだろうし、レナードもシェリアにアクションがあるはずだ。

だから、ラーズはレナードではなくその依頼者の方……貴族だと言っていたが、その人物はラーズを首肯させるに充分な信頼、或いは権力があるのだろう。

「ねーミュリエル、靴どうするー?」
「靴は……グリーヴを外して貰って、上からブーツガードかけたら?」

ミュリエルの指示を受け、イルメラはカインのグリーヴを外そうと手をかけたが、力任せに引っ張るため、カインはそれを止めさせて自分からグリーヴの金具を外す。

その行動を続けながらも、まだレナードの事を考えようとしている自分に、若干の呆れを覚えた。

「……随分、変わりましたね」

その時、ちょうどラーズがカインに話しかけて来たのだが、ラーズも苦笑しながらだったのでカインはその視線を厭うように顔を背ける。

「ラーズ」
「はい?」
「お前は……これで上手くいくと思うか?」

疲れた様子で訊ねてくるカインだが、姿も相まってなんだか可愛らしい。

ラーズは笑わないように気をつけながらも、大丈夫ですよと告げた。

「魔術師的な観点から、恐らくこの国は魔法に親しみがあり、とても見慣れています。
むしろ、魔法で変えたもののほうが見破りやすい。変化の魔術を使用するよりは、この国の人を欺けると思いますよ」

その言葉を肯定するかのように、こくこくとイルメラが首を縦に振る。その度に、左右に結んだ彼女の髪がふわふわと揺れた。

「そーそ、あたしたちは魔法に慣れてるから、わざわざ手間と時間をかけて姿を変えようとか、全然思わないんだよね」
「魔法で変えた方が、お金もかかりませんから……」

ミュリエルまでがそう継いでくるので、魔術師達の言葉を信用するほかないようだ。

「……お前、オレが女に見えるか? こんな女が居ると思うか?」

レティシスに水を向ければ、彼はカインを穴のあくほど凝視してから『知らなければ』と答える。

「フィーア王女とシェリアを並べても多分違和感はない」
「ふーん。二人ともこれくらい綺麗なの?」

レティシスの弁に興味を示したイルメラは、弾む声で聞いてくる。

「ああ、フィーア王女は男にキッツイけど、美人だと思うよ。シェリアは……そうだなあ……守ってあげたくなるというか……可憐というか」

その他にもブツブツと『いや、美人である』だの『笑うと凄く可愛い』と、勝手に呟いている。

「……イリスクラフトだよね、シェリアさんて。そうか、男をダメにする女なのか……」
「シェリアはそんな女じゃないぞ! 本当に優しい。ただ、いつも苦しそうで――」

子供に対して即座に反論し、ハッと気づいたレティシスは、カインの様子を伺った。

カインは何も言わずレティシスを見つめていたが、その目は感情の欠片を映さない。

「……あのさ、別に」「――雑談に興じている時間があるならそろそろ出発したい」

レティシスの言葉を断ち切るようにして、カインは出発を促しながら立ち上がる。

光剣ウィアスを手にしてから、剣を佩くことが出来ないのを悟ると、自分のガントレットから一部のパーツ……銀のブレスレットを外し、自らの手に填める。

ウィアスをブレスレットにかち合わせると、光の粒子を放ち、神の生み出した聖剣は霧散した。

「用意は良いですか。ベルクラフトの屋敷までおくりましょう」

長の言葉にカインは頷きかけて……動きを止めた。

「待て」
「なんでしょうか」
「ベルクラフトの屋敷に直接行けるなら、この格好は不要なのではないか!?」

カインはてっきり市街など、人通りの多いところを通るため、姿を明らかにしてはリスクが大きいと踏んだため女装をしたのだ。

しかし、悪びれもなくイルメラとミュリエルは顔を見合わせた。

「……だって」
「正体がバレちゃったらマズいのは皇子様だよ」

三国同盟に響く可能性があると指摘されたが、カインも憤りは収まらないようだ。

「だからベルクラフトに……」
「屋敷に事件が起きるかもって言われてるし、憲兵さんが来たらすぐバレちゃうところを穏便に済まそうとしてるんだけど」

尤もらしい言葉だが、自分は玩具にされていたのではないかという疑問がカインの胸中に生まれた時、レティシスが『あっ』と大きな声を出した。

「今度はなんだ!」
「……そしたらさ、カインさんより先にフィーア王女を止めた方が良いんじゃないかって思うんだけど」
「フィーア王女を……」
「あの人、そのまんま隠さず突き進んでんだろ?」

ラーズとカインは顔を見合わせ、高笑いしながら見知らぬベルクラフトの屋敷に乗り込む烈女をはっきりと脳内に確認した。

「……急ごう。キョウスケでは抑えきれないだろう」

無事であってほしい。

もはや、それはシェリアに対してだけではなく、別の意味でもフィーアに投げかけられていた。



「……ふぇっくしょん!!」

灰色がかった屋根の上に刺さっている風と炎をモチーフにした紋章……ベルクラフトの屋敷が木々の間に見え隠れし始めた頃、当のフィーアは大きなくしゃみを一つして、恭介に『お静かに』というジェスチャーをされていた。

「……どなたかわたくしの噂をしていますのね。シェリア様ったら……もぅ……」
「絶対違うと思いますけど」

呆れた様子で恭介はフィーアにツッコミを入れたが、無言でついてくるリエルトもおそらく同じ気持ちだろう。

「あの建物が、ベルクラフトの屋敷……。思っていたよりは大きいんだね」
「仮にもイリスクラフトの分家ですから、住処くらいは立派なのでしょう」

とはいえ、フィーアも実際のベルクラフトの人となりを知っているわけではない。魔術ギルドのように所属者を調べまわってもいないし、聞こえてくる噂もイリスクラフトばかりだ。

ただ――当のイリスクラフトでさえ、良い噂ばかりではない。今回の結末がどうであれ、両家にまつわる尾鰭のついた噂は多々上がることだろう。


――シェリア様と合流できたら、ひっぱたくくらいは構わないでしょうか……。

母親としての苦悩もあっただろう。自分のことより他者……リエルトの為に行動した彼女を思う。

二人の間に何があったかを知る由も無いフィーアにとっては、リエルトがシェリアを憎む気持ちは嘘偽りもないのだろうと推測するほかない。

むしろ、リエルトが駄々をこねて母親を困らせているという、遅すぎる反抗期と同じにしか見えなかった。

リエルトのシェリアに対しての態度、カインに対する態度……そしてフィーアへの対応も全く違う。

しかし――結局、彼は母親にわがままを……甘えを見せているのである。

フィーアにしてみれば、シェリアが死ぬ理由など全くないに等しい。

「アルガレスは面倒な国家ですこと」

思わず口をついて出た言葉は本心。恭介が怪訝そうな顔をしたので、なんでもないとフィーアが首を振ると、それ以上は追求してこなかった。

「さて……どうしましょう。いつ来るのか分からないカイン様達を待っていて良いのかしら」

来るときは獣道だったが、屋敷に向かって伸びる道は一本だけ。

迷うはずはないが、待ち合わせもない。もしかすると、先に到達している可能性は……低いけれどゼロでもない。

「……ベルクラフトがどのような魔術師なのかは分かりませんからねえ。安全性を考慮するなら到着を待っている方が」
「合流した瞬間、わたくしたちが一網打尽になったなら笑えますわね。
その間に、シェリア様が汚らわしい魔術師にどうされてしまうのか……ああ、わたくし、考えただけで怒りと興味が胸中に湧きあがります」

彼女はこの中の誰よりもシェリアの安否を気遣っているのだろうが、それ以外のニュアンスを含んでいるようにも聞こえてくる。

「…………」

恭介とリエルトが返事に窮していると、樹上からルァンは『待て』と強い語調で会話を中断させる。

周囲に視線を走らせ、身を低くしながら耳をぴんぴんと動かす姿は本当に猫そのものだ。

『悲鳴が伝わってくる……森の精霊達が不安や恐怖を感じているようだ。屋敷に近い場所で混乱が起こっている』
「なんですって……!」

フィーアは眉を寄せ、忌むべきものを見るような顔で目的地の屋敷を見据えた。

周囲に存在している精霊が屋敷周辺で取り乱すとは、間違いなくあの中で何かが起こり始めた証だ。

「急ごう……!」

何かあれば習慣的に本を開くという癖を持つ恭介は、今回もいつものように記述を読もうとしたが――突如青白い炎が出現し、本を舐めるように包み込む。

「あっ……!?」

予期せぬ事に驚き、目を見開く恭介だったが不思議と手は熱くない。が、端から見ている二人には彼が硬直して動けないように見えたらしい。

レナードは恭介の手から本をはたき落とし、火傷は大丈夫かと聞いた。

「あぁ……うん、ぼくは全く平気。ただ、本が……何も火の気がないのに燃えてしまった」

枯れ草が下にあろうとも、蒼炎はその身を大きく広げようとしない。ただ本のみを覆い、全ての文字を灰にしたがっているように燃え続けている。

それをじっと眺めていたルァンは、厄介だなと口にする。

「……恭介とやら。これは人為的なものではないぞ。
これから起こる歴史が記されているこの本……神、いわゆる我々に似た存在の力を感じない。
何らかの手段で紡がれた『人造物(アーティファクト)』だとして、それが収めきれない方向に、歴史が変わろうとしているのだろう」

この世には、神の魔力や血液といった智慧で作られた創造法具(クリーチャー)というとてつもない力を秘めた武具や道具があるのに対し、人造物と呼ばれるエルティアに住む存在の英知が凝縮されたアイテムがある。

これらは所持して効果を発揮するものもあれば、知識や関連性など、限られた者にしか扱う事が出来ないというものもある。

例えばカインの所持する光剣ウィアスはここにいるルァン自らが作成した創造宝具であり、白銀に輝く剣は、アルガレス王家の血脈しか扱う事が出来ない。

今後シェリアかフィーアがアルガレス王家に認められたとしても、彼女たちにはウィアスを振るう事が出来ないのだ。

だが、カインの息子であるリエルトはそれに触れ、自在に扱う事が出来る……無論、武器による適正や才能などの差で戦い方は変わるだろうけれど。

「それは……つまり、本来ある形とは違う方向に事象が進んでいると……?」
「……フィーア王女。封印の力を使わせるかもしれん。心の準備を頼もう」

その言葉は、場の緊張を瞬時に引き上げるに十分な意味を持っていた。

「……もしも、使うとしたらどなたに」
「……シェリアだ。彼女の持つなんらかの要因が、歴史を狂わす。
起因・発動するものが現段階で不明である以上、いっそ封じる方が安全だ」
「――……」

フィーアの表情が引き締まり、恭介は納得がいかないという様子でルァンを見つめる。

リエルトは仮面の下でやはり、という顔をして目を伏せる。

瞼の裏に焼き付いて離れない、紅に染まった世界……そして、行方不明だったシェリアは全てを壊して笑っていた。

一体あの女性のなにが、歴史に歪みをもたらす一因になるのか。

イリスクラフトの血を受け継いでいる女性であるなら、伯父であるラーズの子供も一人いる。

しかし、自分の知っている未来のアルガレスは『あの日』まで至って穏便だった。

「……とにかく。シェリア様を見つけることが先決ですわね」
「それは困ります」

突如会話に知らない男の声が加わり、フィーア達は一斉に身構えて周囲を警戒する。

「ここは私有地ですよ。許可も無く勝手に入られては迷惑です」

枯葉を踏みしめながら、年若い男が姿を現した。外見から判断して年の頃はカインと同じ程度か、やや上。

実際カインは年齢の割には大人びている顔立ちのため、実際の年齢よりは多少上に見える。

しかし、カイン達一行の中で年長である恭介は22歳の割に童顔だ。

この男も実年齢は20を超えているのかもしれないが、少なくとも成人男性――この世界の成人年齢は15歳以上――は間違いないと思われる。

度があまり強くなさそうな眼鏡の下、神経質そうな焦茶色の眼はフィーア達を値踏みするように細められていた。

「人が話している時に割り込んで来るなんて、随分無作法ですわね」
「無作法はそちらです。人の屋敷の近くで大きな声で話していたもので、何事かと気になって見に来たのですよ」

そうして青年は屋敷を振り返り、我が家にどのようなご用ですかと訊く。

「我が家……? では貴方は」
「ええ。わたしはベルクラフトの次男、名をセルージョと申します。
今我が家は取り込んでおりまして、取次ぎでしたらわたしが行ないましょう」
「……わたくし――」

名乗ろうとするフィーアの前に、恭介がスッと出るとセルージョへ優しい笑みを向ける。

純朴な者なら思わずつられてしまいそうな笑顔だったが、このベルクラフトの青年の顔には微塵の笑顔すら浮かんでいない。

「初めまして。ぼくは神長恭介と申します。
ご高名なベルクラフト一族の方にお会いできて光栄です」

そう言いながら恭介は握手を求めるように手を差し出したが、セルージョはその手を訝しげに眺め、手を取ろうとはしない。

肩をすくめつつ愛想笑いを浮かべて手を引っ込めると、セルージョは恭介にお引き取りくださいと淡々と返した。

「先ほども申しました通り……取り込んでおりまして。ご用があれば数日後、こちらから打診させていただきます。お泊まりの宿などは――」
「ご用なんてそんな。うちのシェリアさんを返してもらいに来ただけですから、勝手に探して勝手に帰ります。お屋敷に案内してください」

ニコニコと屈託のない恭介の笑顔とは真逆に、セルージョの眼が一層の冷たさを帯びたが、それはすぐに消え、彼は冷静を装うように眼鏡を指で押しあげる。

「……さて。そのような方は知りませんね。この寂れた家に訪ねてくるような人など居ませんでしたよ」
「じゃあ、掻っ攫ってきたんでしょうか」
「ご冗談を。我が家の誰があなたがたがお探しの方を、いったいどこから何のために連れてくると?」
「みなまで言わなくてはなりませんの? 性格だけではなく、頭の具合は一層宜しくないご様子」
「……あなたも顔と身体つきは素晴らしいのに、娼婦以上に如何わしい服装で頭と口が悪いお人ですね。育ちが知れます」
「まぁっ」

セルージョの嘲笑を憤慨した様子で反応するフィーアだが、まあまあと恭介に宥められて不満たっぷりに唇を尖らせる。

「……とにかく、セルージョさん、でしたっけ。案内していただけないなら――」
「まさか、武力で通るというわけですか? 野蛮な考えだ」
「ごめんなさい。こちらは、なりふり構っていられないので」

ニコッと笑顔を見せてから、地を蹴ると瞬時に距離を詰め、セルージョの顔前にやって来た恭介だったが、危険を感じてすぐに後方へ飛び退る。

恭介が立っていた地面から一瞬遅れて炎の壁が吹き出すように立ち上り、熱風は二人の長衣の裾をはためかせる。

「危ない危ない。魔法、一応使えたんですね。ベルクラフトは没落寸前だと聞いていたので油断しました」
「我が一族を愚弄するのも、大概にしなさい……!」

セルージョの指先から、緑色の球状の光が恭介へ向けて放たれた。

それを恭介はひらりと避け、後方のフィーアに『先に行っててもらえます?』と間延びした口調で投げかけた。

「あら、よろしいの?」
「本心を言えば寂しいからみんなと一緒が良いですが、時間かかると困るので……」
「そんな言い方は気持ちが悪いので、先に行かせて貰います」

フィーアは非情にもリエルトに目配せをし、恭介をこの場に残して屋敷を目指す。

「行かせるとでも――!」

再び魔術が放たれそうになった時、再度攻勢に転じた恭介がセルージョの腕を高く蹴り上げる。

「ッ……!」

まっすぐに飛んでいくはずだった光球は恭介の攻撃により本来狙うはずの場所から逸れ……フィーア達の頭上、樹木に炸裂した。

表皮は焼け、しゅうしゅうと燻る煙が立ち込めているのを横目で見て、恭介はほっと胸を撫で下ろした。

「あんなものが当たったら痛いじゃないですか。だめだよ、なんでも攻撃に使ったら」

そんな諭すような口ぶりの恭介。

「なにを……」

セルージョは蹴られた腕をさすりながら、加害者であるのに悪びれもなく語る恭介を疎ましげに見据える。

「……あなたがた、どうせアルガレス皇子の手下でしょう」
「んっ?」
「とぼけても無駄です。兄が皇子に会ったと」
「ははあ……なら認めてくださるのですか、お兄さんがシェリアさんを攫った、と」
「あの女はもともと我々のモノだ」
「んー……あなたは二つ勘違いしてる。まず、ひとつ。
シェリアさんは、あなたたちの『モノ』なんかじゃないよ。彼女は彼女の意思でやりたいことをやり、一緒にいたいひと、守りたいひとを決めるために生まれたんだ」
「彼女は親にこうあるべきだと『仕組まれた』存在。意思と身体がある魔力の器です。必要なときにそこに差し出せればいい」
「……こんなこと言いたくないけど、本当にそう思っているなら君は人間のクズだよ」

クズと罵られ、セルージョも流石に怒りを見せた。が、恭介は顔色を変えず、次に、と話し始める。

「ぼくらはアルガレスの皇子の命令でここに来たんじゃないよ。
ずっと前から、ぼくはベルクラフトにも会いたかった。だから調べたんだ。紋章も、家の大まかな所在もね」

セルージョは調査されたと受け取ったようだが、恭介の弁はあながち嘘ではなかった。

もう灰となってしまったが、恭介の所持していた本にはいずれ来るこの日のために、自身で調べたたくさんのメモ書きが挟んであったのだ。

記載した大半はまだ彼の頭脳に蓄積されているにしろ、視認できないことは惜しいだろう。

「あなたのような部外者に、我が一族の方針をとやかく言う筋合いもない」
「確かに人のことだ。でも、シェリアさんやカイン皇子の事を、ぼくはずっと前から知っていた。彼らを救う為にぼくは来たんだ」
「へぇ……あなたにとって【救い】とは、どのような意味が?」
「あの二人……いや、さらに二人増えるかな。理不尽なものに潰されず、笑っていて欲しいだけだよ」

屋敷に向かっていった二人の方向を見つめ、恭介はまるで父親のそれのように穏やかな口調で答える。

彼にとって、カイン達は本の中の人々だと思っていた。本の愛好家として、頑張れと応援したい気持ちもある。

英雄への憧憬と、友人のような親しみが芽生えていたのに悲劇に通じる結末。恭介には受け入れられるものではなかった。

一番最初に読了した際、恭介は胸の痛みと悲しみに咽び泣いた。

「あなたとわたしは真逆の価値観なようだ。分かり合えない。勿論、わかり合うつもりはない」
「残念だなあ……とも思わないからお互い様かもね」

恭介とセルージョは対峙し、どちらともなく攻撃体勢に移る。

素早さなら恭介のほうが上だが、相手の詠唱が完了する前に勝負を決めなくてはいけない。

セルージョは手早く詠唱を行い、自身の周囲に光の壁を作ろうとする。

大気が揺らめき、魔力の光が彼の足元からゆっくりと魔法陣を描き始め――恭介は短い呼気を放つと、セルージョへ向かって疾走した。

術を放とうと腕を突き出したセルージョの鳩尾に掌打を乗せる。

「あ……」

呻き声が、恭介の耳を掠めて空に溶けた。

ずるずると緩慢に膝をつき、地に伏したセルージョを見届けて、こんなものなのかな、と恭介は漏らした。

もし高速詠唱を使用できるラーズが相手だったら、恭介が攻撃を当てようと踏み込んだ場合、最低三度は焼かれていただろう。

だが彼の詠唱は遅く、恭介はあっさりと踏み込めてしまった。

『いつからか彼ら一族は己の鍛錬を怠り、意識をイリスクラフトへの憎悪にすり替えてしまった。
もしも、イリスクラフトを見返してやろう、技術を高めようと励む者が当主になっていたならば……また違った未来もあったな』

恭介の前にルァンがやってきて、憐れむような目をセルージョへ向ける。

「あなたはベルクラフトにも詳しいのですか?」
『人より歴代当主の顔を多少知っているくらいさ。
まあ……そうは言っても、黒竜戦争の時に姿を見せたくらいで全く交流はなかったに等しいよ』

当時を懐かしむように目を細めたルァンだが、恭介に向き直り『これをこのまま放置して構わないのか?』と聞いた。

「……殺すつもりはありませんけど、修羅場に合流されても困りますから縄で縛っておきましょうか」
『そうだな。まだ両家の確執は続くのだろうが、無闇に命を奪う必要はない』

恭介はブレスレットの宝玉から布と縄を取り出し、セルージョの口に布を捻ったものを轡として噛ませ、身体を荒縄でぐるぐると縛って地面へ転がしておく。

「さて。フィーア王女が遅れをとるとは思えませんが、ぼくらも急ぎましょう」
『うむ』

恭介とルァンは、屋敷へと向かって駆け出した。

これから起こる、悲劇を知らず。



前へ / Mainに戻る / 次へ



コメント 

チェックボタンだけでも送信できます~

萌えた! 面白かった! 好き!
更新楽しみにしてるよ