暗闇の中、ゆらゆらと頼りなく揺れる紫色の炎。
燭台はおろか、蝋燭や油といった燃料もない裸火だけ――四つ程その空間に浮かんでいるという、奇妙な光景。
「……アルガレスから『奴』が出て、ブレゼシュタットへ向かっているそうだな」その声の主――と思しき存在が、跪くローブ姿の者へと語りかけていた。
「……はい。ミ・エラスの元首フリーデルに助力し、その後ミ・エラスの北東に潜伏していた分隊を撃破したと」女の声でそう答えたのはローブ姿の者。照明としては全く頼りにならない紫の炎は、細身の報告者の手元をわずかばかり照らす。
「……忌まわしい男だ」その声に含まれる苛立ちに、心中お察しいたします、と更に低く頭を垂れる。
しばしの沈黙の後、報告を受けていた存在は『手は打っているのか』と口にした。
すると――無論、とローブの者は答え、顔を上げる。フードに包まれたその顔は下半分しか見えず周囲も暗いため、どのような表情を浮かべているのか判別できない。
「既に行動に移っております」あなたの忠実な部下と共に。そう言った女は、くすりと小さく笑ったようだった。
カインたち一行は、ミ・エラス共和国に一時的な戦力として加勢し、侵攻してきた魔族を撃退することに成功した。
ミ・エラスを襲った敵の組織的な動きが気になったカインたちは、ミ・エラス北東にある洞窟へと赴き、そこで黒幕と思しき人語を解する魔族を発見する。
魔族も当然知性はある。が、多言語――主に人間や亜人の言葉――を使うことができるのは、特にほかの個体より知性が高い。
その魔族がどのようにして戦術指揮を学んだかはともかくとしてそこに巣食っていた魔族を倒し、カインたちはミ・エラスの国力回復を願いつつ次なる場所――ブレゼシュタットへと向かっていた。
ミ・エラスで元首フリーデルより、多大なる感謝を受けたカインが隣国の皇子と知ったレティシス。
恐縮したような態度を見せるのだが、そんなに萎縮せず大丈夫ですよとラーズは柔らかく微笑んだ。
「皇子は貴族として教育を受けたにもかかわらず、遊び相手が城内の兵士ばかりでしたから、とても庶民的です。そんなラーズの説明に、カインもいささか不服を覚えたのか、馬の手綱を握りながら『奴らがおかしいのだ』と後方で馬を並べる二人を振り返る。
「税金を中間地点で吸い上げることばかり考える奴らは改革など考えない。そう告げると前方を向き、森を抜けて開けた場所に出ると、いったん休憩をしようと切り出す。
「リーズベルドを出て二日ですが、そろそろミ・エラスとブレゼシュタットの国境が見えてくる頃です。カインが馬の歩を緩めたのを見て、仮面の男レナードがそう口にする。
すると、シェリアは二日、と悲しそうな声で呟いた。
「早々都合よく宿もない。女には不便もあるだろうが、旅はこんな危険や難儀なことばかりだ」シェリアに言い聞かせるようにして、カインは馬を下りると手綱を握り、レティシスが投げてよこした木の杭を地に突き刺す。
木の杭は手綱を縛りやすいよう先端部分が婉曲に加工されており、その部分に革の手綱を引っかけた。
周囲にはわずかな木々と足首程度にしか伸びていない背の低い草が生い茂っているため、馬にとっても軽い食事にありつけるだろう。
もたもたと馬から下りようとするシェリアの手を取って支えてやると、ラーズは草原を見渡す。
爽やかな風が吹いているが、ブレゼシュタットが近づくにつれて気温は上がっているようだ。
「……カイン様、ブレゼシュタットに到着する前に、魔法金属の鎧は脱いだ方が宜しいかと」カインも頷いて、自らの鎧を見つめる。
胸部にはアルガレスの紋章――光剣ウィアスと大盾を守護する竜――が彫られている鎧。
ミ・エラス共和国は友好国のため、この鎧を着ていても許されていたが、ここから先も同じようにできるわけがないことはわかっていた。
何よりブレゼシュタットは首都の先に砂漠がある暑いところと聞く。魔法金属とはいえ立派な金属なので、自然光は吸収する。
加えて夜は冷え込む。寒暖の差が激しくなる国で金属鎧を着用し続けることは、体調に多大な影響を及ぼしてしまう。
「リフラムで一度、服装を改める必要があるな……」と、カインは隣でラーズと共に火を起こす用意をしているシェリアの様子を見つめる。
彼女は普段厚手のコートを着込んでいるが、その下の服装は肌を大きく露出するもので、女性魔術師である特性上仕方がないにしろ、コートなしの姿は人前で見せづらい。
それは恐らくレナードもそう思っているようで、彼もまたシェリアを無言で見つめていた。
そんな二人の気持ちを知ってか知らずか、当人であるシェリアは視線に気づかず、薪になりそうな小枝を拾い集めはじめた。
そんな彼女が手当てしているレティシスの傷の具合はだいぶ良くなってきた。
まだ剣を振るうには痛みが残るようだが、軽いものを運んだり、少しの距離を歩く程度は問題ない。
自らが手当てをしているから少しずつレティシスが快方に向かう様は安堵するし、何より誰かのために自分の力が役に立っている――そのことが彼女にはとても嬉しいようだ。
自分が嬉しそうな顔をしていることすら気づかず、シェリアが枝を拾い集めていると……がさり、と、彼女の近くで草が動いた。
びくりと肩を震わせ、動きを止めて草むらを凝視する。
投げかけた自分の声が強張っているのを感じつつも、こんな場所に人間型の生物が身を潜められるはずがないこともわかっていた。
かといって魔物の類なら先に敏感な馬が気づくのでは、と思った彼女だったが、馬はシェリアの様子にも周囲にも警戒することも無く、皆仲良く草を食むことに集中しているようだ。
再び細い草が揺れ――身を固くし、唇を引き結んだシェリアの前に姿を現したのは――小さな生き物だった。
銀色の毛並みをした小さな猫。いや、猫に近い生き物というべきだろうか。
その獣の背には純白の羽が生えていて、ガラス玉のような蒼い瞳をシェリアへと向けている。
「あら……」愛くるしい外見に、シェリアも僅かに表情を緩ませたが……こう見えても敵意ある生き物かもしれない、と思い直して眉をつり上げる。
互いにじっと見つめ合っていると、獣は小さく『にゃーん』と鳴いた。
「か……可愛い……っ」思わず出てしまった素直な感想。
気を張っていたはずなのに、眉ばかりか目尻も下がる。
獣はシェリアの言葉が分かったのか、たまたまか……草の中からそろりと一歩踏み出す。
シェリアの様子を伺いながら、それでいて……耳をぴんと立たせているところから、この獣も人間に興味が無いわけではないらしい。
獣には一切の敵意は感じられなかった。本当にただの小動物なのかもしれない。
もう一度獣が鳴くと、シェリアはゆっくりその場にかがみ込んだ。
「こんにちは。あなたはこの場所に棲んでるのかな? 仲間とはぐれたの?」シェリアはにこやかに訊ねてみたが、当然獣から返事があるわけでもない。
無言で歩を進める獣はシェリアの前まで来ると、その場へちょこんと座る。
大きな丸い目は、何かを待っているかのように逸らされることなくシェリアを見つめていた。
作り物のような蒼く澄んだ瞳を見つめていると、カインの目の色……空の色にも似ているなと思って、シェリアは小さく微笑んだ。
「私の好きな人と似た青……綺麗な眼の色ね」その言葉が気に入ったか、獣は小さく鳴くと……シェリアの足元に頭を擦り付けて喉を鳴らす。
ふわふわとした体毛と、鳥のような柔らかい羽。
人懐こい獣の愛らしい仕草は、次第にシェリアの緊張を解いていった。
「触ってもいい……?」不思議な生き物は了承するかのように目を細めて小さく鳴く。
手を伸ばしても逃げる素振りは見せないため、獣の頭を撫でてみる。
幼少のころから屋敷の中で過ごしていたため、小動物に触れた経験がない。
恐々触るような撫で方に、獣のほうがじれったいのか自分から頭を押し付け、先ほどよりも大きくゴロゴロと喉を鳴らして目を細める。
「ああ……仲良くしてくれるの? うふふ、くすぐったい……甘えたがりなのね」シェリアは嬉しそうに獣へと話しかけ、獣は彼女の言葉に応えるように無邪気に彼女の手を甘噛みしたり、体をこすりつけてじゃれついていた。
どれくらいそうしていただろうか。
不意に鋭い声が背中に投げかけられたため、シェリアは大きく体を震わせ、後方を振り返る。
剣を持って、怖い顔をしたままこちらに近づいてくるカインの姿があった。
カインの大きな声に驚いたのか、猫のような動物は素早くシェリアから離れて後方の木陰へと身を隠し、顔だけを出して人間たちを見つめている。
「あ……っ、猫さん……」至極残念そうな声を出したシェリアに、カインが何だあれはと訊いた。
「……魔獣の類か?」その動物の正体に気が付いたのはラーズだ。おや、と目を丸くし、こわごわこちらを伺う猫を物珍しげに見ていた。
「もっとも、最近ではエルフたちの住む森にしかいないと言われているほど珍しいものですが……」カインから注意を受けたシェリアは、誰の目から見てもわかる程度にしょんぼりとうなだれ、小さな声でごめんなさいと口にする。
「頭ごなしに叱りつけたら可哀想だろ。俺だって同じように近づいてきたら触ってただろうし……」見かねたレティシスがシェリアを庇うが、カインは『注意が足らん』と呟いて、剣を鞘に収めるとまた元の場所へと戻っていく。
シェリアが名残惜しそうに振り返ると、羽猫はその場から動かないまま、彼女たちを丸い瞳でじっと見つめていた。
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