審神者見習いであっても、本名を名乗ることは許されていない。
本名の意味合いに通ずるような『千歳』という名を与えられ、そのように名乗ることになった彼女はしばらくの間、審神者としてのいろはを学ぶ……要するに研修というものが用意された。
研修と言っても、つい先日まで刀剣男士のことなど何も知らない一般人であった新人審神者達を、地域ごとの会場に集めて大雑把な教育を施す……ということではなかった。
既に審神者として活動している者に付き従い、審神者としての心構えや指揮、本丸の運営、刀剣男士の育成や万屋の使用方法など細かく学ぶのだ。
千歳は審神者としてまだ正式に任命されているわけではなく、一ヶ月間は見習いとして過ごす。
そこで総合的に審神者として活動するに相応しいかという最終面談や試験があり、合格後晴れて正式に採用され、伝達役である『こんのすけ』と、自分の職場兼住居である『本丸』というものを貸与することになっている。
まずはしばらく教えを請う、審神者と合流しなければならないのだが――……。
「この山道を登っていくと、本丸、っていうところに着くんですか……? 道すがらいろいろな人に住所を尋ねても、知らない、そんな家ない……って言われてましたよね」
千歳は緩やかに伸びている上り坂を歩きながら、額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
こんなことなら、最寄り駅で待機していた役人に聞いておけば良かった。
本丸とやらまでは同伴してくれないらしく、手渡された地図を頼りに、かれこれ三十分は舗装もされていない山道を歩いている。
千歳とて、自分が軽装であるか、山登りに適した装備であれば文句も言わなかっただろう。
しかし、千歳と名乗ることになった彼女は今日から一般の生活とは切り離され、審神者としての修行――のようなもの――に入る。
これが試験の始まりなのだろうか。山に分け入り、目の前を遠慮なく飛んでいく虫に時折ビクつきながら、道とも呼べぬような場所を進んでいた。
新緑の柔らかな緑は目に優しく、群生しているヤマツツジの鮮やかな赤も道中を楽しませてくれるが――……キャリーバッグを引きながら山道を登ることになる、などとは想像していなかった。
しかも、審神者の職場兼住居である『本丸』という家なのか屋敷なのか、城なのか定かではないものも未だ見えてこない。
「当然じゃ。審神者も刀剣男士も、外に知られちゃあいけん仕事やき」
道を間違えてしまったんじゃないかと不安になってきた頃、数歩先を行く陸奥守は、人慣れしているような笑顔を浮かべながら振り返り、新たな主となった女に視線を向けた。
陸奥守吉行。自らが解放したのは坂本龍馬の愛刀であった……ということを、インターネットで検索して知った。
まさか刀が人間(正確には付喪神と言うらしいが)になって、自分と会話しているとは誰も思わないだろう。
「多分、もうちっくとで到着する思うぜよ。ほい、柳行李の荷物は持っちゃるき、おまんにもなんちゃあない山道じゃ」
そう言いながら千歳に近付き、彼女のキャリーバッグを掴むと再び歩き出す。
土佐弁を聞き慣れないため、陸奥守が何を言っているかはニュアンスで読み取るしかないのだが、多分荷物は持ってやるから頑張れと励ましてくれたのだろう……と考え、礼を言いながら再び陸奥守の後を歩く。
そこから十分ほど草木をかき分けながら進むと、突如石垣と大きな扉が目の前に現れた。
「ようこそ、研修者さん」
扉の前には眼帯を付けた黒髪の男がワンピース姿の女と一緒に立っていて、にっこりと愛想良く微笑んでいる。
黒いスーツに袖鎧を付けた男もまた、刀剣男士というものなのだろう。
「はじめまして。審神者の皐月です。ええと、千歳さん……よね? 弊本丸へようこそ。ふふっ、ここまで歩くの大変だったでしょう。迎えに行ってはいけない規則だったから、ここで待機していたの……びっくりさせてごめんなさいね。こっちは近侍の燭台切光忠よ」
「はじめまして。か……千歳です。彼は陸奥守吉行です」
栗色の髪の女性、皐月が柔和な笑顔を向けつつ挨拶をしてくれたので、千歳も彼女にならい、自己紹介をする。
思わず本名を名乗りそうになったのに気づいて慌てて言い換えたのも、皐月には分かったらしい。
じきに審神者名も慣れるから、と言って本丸に続く巨大な扉を開門させ、千歳達を迎え入れた。
千歳はそこで皐月から必要なことを学び、皐月も千歳に自身の経験も交えつつ、基本的なこと以外にも様々なことを教えてくれた。
一ヶ月という期間は長いようでとても短く、審神者試験にも合格したのを、まるで我がことのように喜び、自身の本丸に呼んで祝賀会まで催したのだ。
「おめでとう、千歳ちゃん! わたし、とっても嬉しいわ!!」
「ありがとうございます。いっぱい教えてくださった皐月先輩のおかげです」
本当になんとか……という、ぎりぎりのところだったことも皐月には報告されているはずなのだが、皐月は合格さえできれば大丈夫だと満面の笑みを浮かべている。
「ううん、これは一生懸命取り組んだ、千歳ちゃんの頑張りが実を結んだ結果よ。それに、審神者の仕事はこれからじゃない。まだまだ教えてあげたいこともいっぱいあるわ」
千歳の本丸には男士が二振り……陸奥守と加州清光しかおらず人手不足なので、三日後に皐月が数振りの男士と共に荷物の搬入手伝いに行くという。
その申し出に大変感謝しつつも、どうしてこんなに親身に教えてくれるんだろうと密かに思っていると……彼女の近侍、燭台切が『主は……千歳さんみたいに素直で可愛らしい子が後輩として来てくれて、とても嬉しいんだと言っていたよ』と、主の心情を千歳に告げ、照れた皐月に背中をはたかれている。
「主も友人や家族と離れ、こういう生活をしている。刀剣男士という性質上、男ばかりが側にいるわけだからね。女の子が側にいると、同性にしかない親しみや共感を分かち合えるんじゃないかな」
同じ審神者という立場や境遇、そして女同士。なるほど、それは確かにあるかもしれない――と千歳も頷き、燭台切も黙って頷いた。
「そうだ、千歳ちゃんにプレゼントがあるの!」
照れを隠すようにわざと大きな声を発した皐月は、柏手を打つようにぱん、と両手のひらを合わせると、立ち上がってすぐ後方の棚から大きな紙袋を引っ張りだし、千歳の前に差し出した。
「合格祝いよ。ネットで見て、千歳ちゃんに似合うだろうなあと思って買っちゃった。サイズはMサイズで大丈夫だったかしら」
「えっ……ありがとう、ございます……中を見ても良いですか?」
「ええ!」
むしろ見てくれと言わんばかりに力強く頷かれ、千歳は紙袋の中に入っている箱を取り出すと……蓋を開き、あっ、と小さな声を上げた。
ゴシック風というか、クラシックな装いの黒いワンピースだが、どこかミリタリー的な成分も含まれている。
「軍服ワンピースっていうらしいの。SNSで見かけて、千歳ちゃんに似合いそうだな~って思ったから。気に入ってくれたら嬉しいわ」
「なんじゃあ、千歳~ええ服を貰うて良かったなあ」
「はい。大事に着ますね」
「審神者の仕事着として使ってくれても良いのよっ?」
「はいはい、主。千歳さんが断れないからそこまでにしてあげて」
大皿に入れた煮物を携えてきた燭台切が間に入って自身の主を諫めると、再び御厨へ戻っていく。
穏やかな時間と温かな人の優しさに触れ、千歳は皐月とたくさんのことを話しながら笑い合う。
この交流が皐月と過ごした最後になろうとは――ここにいる誰一人として予測するものなどいなかっただろう。
それから二日後、陸奥守と共に万屋であれこれと物色していると、こんのすけが主さま主さまと慌てながら駆け寄ってきた。
「こんのすけ……一体どうしたの?」
屈んで抱っこしてあげると、こんのすけは大きな瞳を潤ませながら緊急事態なのです、と小さな身体を震わせながら告げる。
「大変です、皐月様の本丸が、時間遡行軍の襲撃で――……」
壊滅しました、などと……この小さな生き物は呟いた。
「…………」
全身傷だらけで千歳の本丸にたどり着いた燭台切は、皐月の手紙を千歳に託すと昏倒した。
怪我の具合はしばらくの間ゆっくり休ませて体力を回復させること……むしろ、彼の主ではない千歳には手入れができないからというこんのすけの助言に従い、空き部屋に布団を敷いて寝かせておいた。
千歳も落ち着きを取り戻し、一人になりたいからと引きこもった執務室で、皐月の手紙を取り出す。
手紙を急いで書いたのだろう。少々乱れた皐月の文字が、白い便せんを埋めている。
この手紙を書いている最中にも、時間遡行軍に本丸が襲撃されて男士達が交戦中であること。
奴らが審神者の場所を知り、襲撃をかけるなんて都市伝説だと思っていたが、事実であったから、千歳も今後充分な戦力として男士を顕現させ、強化しておくことを強く推奨するという注意事項。
そして――……千歳には審神者としても女性としても辛いことが今後多くあるだろうが、強く生き残って欲しい、そしてこの手紙を持ってきた燭台切を頼む、という……彼女の願いが記されてあった。
その手紙を胸に抱き、千歳は無力な自分を責めながら声を押し殺して泣いた。
皐月の手紙内容のことも、燭台切のこともこんのすけを通して政府の役人……千歳の本丸担当者へと伝えると、数日後、その担当者である女性から、結論が下された。
皐月の本丸は確かに襲撃を受けた形跡があり、破壊された刀が無数に落ちていたこと。
あの審神者の実力と戦闘の激しさから推測すると、時間遡行軍は十や二十ではなく、相当数投入されたらしいということ。
当の皐月の遺体はないため、死亡ではなく生死不明、という状態にあること。
そして……本丸は、生存している刀も重傷である燭台切のみであり……主も不在。
政府は主の帰還と本丸の維持は不可能であると判断したようだ。
期間はまちまちだが、今回は即座に解体されることになったと伝えた。
皐月の刀である燭台切も本来は刀解されるはずであったが、皐月の遺言と同等の効力を持っていると見なされる手紙から、千歳の預かりにしても構わないと許可は下された。
その際、所有者情報としては皐月のもののまま、千歳の刀所持枠を流用すること……になるらしい。
千歳はその指示に従い、燭台切の元を訪ねる。
彼はまだ怪我が治りきらず、包帯を巻いた痛々しい姿で布団にその身を横たえていた。
千歳が一声かけて襖を開くと、燭台切は上半身をゆっくり起こし、ごめんね、と弱々しい笑顔を見せた。
「こんなかっこ悪いところを、主の可愛い後輩に見せるなんて恥ずかしいよ」
「お気になさらず。きちんと養生してください。無理さえしなければ、塞がる傷だそうです」
国の機関にも刀剣男士の傷を癒やせる『剣』と呼ばれる存在がいるそうだが、呼ぶにも千歳の給料では何年かかるか分からないほど莫大な額が必要であり、担当者からも許可が下りなかったのだ。
「……千歳さん。主や僕のいた本丸のことは、こんのすけから聞いたよ」
「…………」
動揺を隠していたつもりではあったのに、千歳の身体は大きく震える。
いつも穏やかに皐月を見ていたはずの燭台切は、千歳の態度を見て悲しそうに笑った。
「なんだろうね。主から千歳さんに渡してくれって手紙を託されて、変な感覚が……していたんだ。ああ、主はもう、本丸と共にする覚悟を決めたんだって、そう納得できてしまっていて。生死不明という報告があっても……もう主は、生きていないよ。僕には分かるんだ」
主とその刀だから分かるのだろうか。
「そんなこと、信じません……私は、皐月先輩が生きているって信じています」
千歳は自身の手を握り、震えを抑えつつもはっきりと燭台切へ自身の考えを告げる。
「たとえ燭台切さんが信じなくても……私のことをバカだなって、逃避だって……浅はかだと笑っても、私だけは……皐月先輩が脱出しているって思ってます。そのときのショックで記憶を失ってしまって、優しい誰かに保護されて、どこかで安心して暮らしているはずだ……って、そう思っています」
他者にどう思われてもいい。皐月が生きていると信じている。
この世で一人くらい、彼女を信じていると……そう思って待っていても良いはずだ。
「…………うん。そうかもしれないね。ありがとう、千歳さん」
その想いが通じたのか、燭台切は平素のように穏やかに告げて、ゆっくりと頷いた。
「そういうわけなので……燭台切さん、私と一緒に先輩が帰ってくるのをここで待ちませんか……?」
「……それは、もしやきみの刀になれってことかな?」
「いいえ。あなたは皐月先輩の愛刀です。私のことは主人と認めなくて構いません。私は政府とは別に、独自で先輩を探すこともします。そこについてきて欲しいともいいません。ここに……いてくださるだけでいいんです」
もちろん、燭台切さえ良ければ。
という条件を付けると、彼は『勘違いしないで欲しいな』と低い声で言い放つ。
「僕はね、確かに今は怪我をしているけれど……刀剣男士なんだよ。客人とは違う。いつまでも千歳さんに甘えていたら、主に何を言われるか分かったものじゃないし、こんな自分自身もふがいなくて許せないからね。怪我が治り次第、他のみんなと同様、戦や内番などにも参加するつもりだ。遠慮せず、好きに使ってくれて良いからね」
叱責を覚悟していた千歳は、燭台切の思わぬ申し出を受け、彼の晴れやかな表情を見つめながら数度瞬き、こくりと頷く。
「主を信じる気持ち、後輩に負けていられないけれど、主が迎えに来てくれたとき、成長したきみを見て喜んで貰えるように見守っていかないとね」
「が、がんばります……!」
「うん。改めて――……よろしくね、千歳さん」