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――長谷部さん。

主は泣いていた。

頬を伝い、流れ落ちる涙を拭ってあげたかった――のに、俺の足は地に張り付いたまま動かず、ここから一歩も主へ近づくことができなかった。

俺がしていたことといえば、おろおろと狼狽え、はらはらと涙を流す主を見つめるだけ。


――私は、貴方が……。

主は真っ直ぐに俺を見つめ、瞳に切ない色を浮かべていた。

ああ、主の綺麗な鳶色の瞳に、俺が映っている。

こうして俺が主の目に映る俺を、ぼうっと見つめている。

長いのか短かったのか、自分自身でも分からぬ刻が過ぎた。

やがて主は口を噤み、涙を拭って涙声で、何でもありません、と呟き……にこりと笑った。

その笑顔はやはり寂しそうだ。

何と仰りたかったのですか、主?

そして俺は、あなたに何と言えば良かったのだろう?


――楽しかったです。

本当に。


まだ、俺は何も言っていない。

主。

教えて下さい。

何を言えば、どうすれば、時間はあの日に戻るのですか。


――……貴方は私だけの、かみさまでした。

ああ、主。

あなたこそ。


あなたこそ、俺の……。



そこで、ゆるゆると目が覚めた。


もう主はいなかった。

いや、主だけではなく、俺以外誰もここにはいない。

また、あの夢……いいや、最後の瞬間――を夢に見たのか。

本丸が終わる、あの日のことを。

何故、俺は過去にも元の魂の在処にも戻れなかったのか。

もう、守るべき場所も人もないというのに。

何のために、此処にいるのか。どうして、俺だけなのか。

幾度、自問自答を繰り返してみても、答えは見つからない。

そればかりか、底なし沼に沈んでいくように、何も見えなくなっていく。

だから、俺はいつしか考えることを放棄していたようにも思う。

そうして、時折思い出しては、また止める。

ゆっくりと身を起こした。

睡眠をとる事など、もう肉体を持たない俺には必要ないことだ。

だが、習慣づいたことはなかなか止められない。

起きていてもやることがないのだから、結局呆けるか寝るしかないのだ。

あの方が俺に下さったものなど、過ごした日々の思い出しかもう――残っていない。

目に映るのは、藤棚と簡素な祠。

何もなかったはずの場所は、いつの間にか見慣れた場所になった。

概念のように赤く塗られた祠には、この周辺の住民が供えた菓子やら缶飲料が常に置かれている。

建てられた経緯など詳しく覚えていないが、若い男の亡者が出るという事でわざわざ此処に建てられた。

それは俺のことかと思ったこともあったが、今では誰もそんな話を覚えておらず、ふらりと散歩のついでにやってきては、適当に手を合わせて帰っていく。

供物に黴が生えようと、水滴が付着しようと、消費期限が過ぎようと、地域住人の誰かが片付けるまではそこにある。

腐っていくのが嫌だと思って手を出したことはない。

何より、ものに触れることが出来ないのだから。

地域住民たちは余程信心深いのか、己の身に何かが起こると勝手に怒りを鎮めて欲しいだの助かりましただのと報告しに来る。

こんな厚い待遇をされても、俺は地域住民を助けも守りもせず、だからといってわざわざ祟りもせずに、ここで鬱々と日々を過ごすだけ。

重ねていう程に、俺は本当に連中へ何ひとつ善行も悪事も働いてはいないのだ。



隣にある藤は何時の間にか芽吹き、棚が作られた。

花が咲けば地域住人の目を楽しませる。

そして俺自身も、その花は嫌いではない。

何より、主の髪の色に似ているから好きだった。

ああ、花が咲くのが楽しみといえば――そうなのかもしれない。

しかしそれ以外は仕事もなく、やりたいこともない。

ただ自堕落に目覚めて、眠る……この繰り返し。

いつからそうし始めたかは忘れた。

自身が幽霊になった詳しい日付は判るが、それから幾星霜が巡り、最早今日が何年何月何日何曜日なのかは不明だ。

目の前の道路には、自動車……の進化したものが、小さな祠など気にも留めずにすいすいと走っていく。

当初から分からなかっただろうが――何を祀っているかすら、誰一人知らぬ祠。

本来、この地は俺と主がいた本丸――だったのだ。


――長谷部さん。

こんな生活で最初に思い出せなくなったと思ったのは、主の声だった。

無邪気に笑う声も、俺の事を呼んでくださる時の声も、悲鳴も、まだ覚えている。

だが、主の声を司る【音】がない。

身体に染み付く【音階】と記憶はあるのに、あなたが出していた【音】が分かりません。

その二つが相違しないから、きっと俺はあなたの【声】を忘れてしまったのです。

ねえ、主。

あんなにも。

あんなにも俺を呼んで下さったのに。

あんなにも俺をお側に置いて下さったのに。

どうして――別れが来たのでしょう。


理解していた。

いつか、必ず訪れるあの日の事を。

恐れてもいたし、厭うてもいた。

けれど、仲間や主と共に戦場を駆け、ひとつひとつを終わらせていくごとに、着実にあの日は近づいていた。

時間遡行軍を退け、検非違使も出現しなくなった数年後。

時の政府は審神者の職務と存在を不要であると判断し、全ての審神者に役職の剥奪・本丸の解散を通達した。

それは俺たち刀剣男士も、美術品としての本体へ戻ることを意味している。

多くの審神者や男士は異を唱えたが、政府は聞く耳を持たず、法的に介入されて解体した本丸も多くあったという。

そして我らの本丸最後の日――初めて出会った日より審神者らしく、女性らしくもなっていた主は、一人一人に声を掛け、刀解をしていった。

涙を堪え、ありがとうと伝えながら。

泣きじゃくって別れを惜しみ、嫌だと駄々をこねる男士を母親のように優しく抱擁し、涙を拭ってやって、還す。

短刀、打刀、太刀、大太刀、槍、薙刀――初期刀の陸奥守すらも。

俺はその一部始終を主の後ろで黙って見ているのみだった。

最後に主は俺の刀を手にし、沈黙する。


――みんな、還しました。

俺は何も言えなかった。

言葉が喉につかえて、何も発することができずに佇んでいた。


――本当に、楽しかった。

辛い時も、貴方に、みんなに支えてもらって……。

ずっとこんな日が続くと思っていました。


いいえ、主。

俺は解っていた。

いつか必ず別れが来ると。

けれどこの瞬間を恐れながら、知らぬふりを続けてきた。

今も、身体の震えが止まらないのです。


――もし、私が貴方を還さないでいたら……一緒にいられますか?

縋るような目で、主は……俺の知らない貌をする。

ほんの少し驚いた。

今ここにいるあなたは、主としての……審神者としての『千歳』ではない。

審神者ではないあなたの……本来の名を俺は――識らない。

初めて出逢ったあなたに何も言ってやれず、俺は沈黙するばかり。


――長谷部さん。

主は……あなたは泣いていた。

自身の感情を堪えきれず、刀を握るあなたの手も震えていたのに。


――私は、貴方が。

あなたは『誰』なんだ。

何故、そんな顔をするのです。

俺に、何を望むのです。

俺の疑問が透けたのか、顔に出たのか。

あなたは哀しげに俺を見つめた後、僅かな間を置いてから再び、いつもの主に戻った。


そして。

最後の言葉は。

さようならでも、ありがとうでもなく。


――貴方は私だけの、かみさまでした。

そこで、ぱちん、と。

暗闇が広がった。

闇に沈むときに聞こえた泣き声は、あなたのでしょうか。

俺のだったのでしょうか。

ああ。

最後の言葉は、どのような意味を持っていたのか、それすら……俺は、未だに分かりません。

主、主、あるじ、あるじあるじあるじ。

あなたにとって、俺は刀の付喪神であっただけなのでしょうか。

俺にとって、あなたこそ――……。

あなたこそ、俺の女神(かみさま)だった。

暗闇から手を差し伸べてくださった。

俺を過去の呪縛から解放し、一緒にいようと笑いかけてくれた。

負傷すれば身を案じて、泣き、怒って。

その全てが。

「――愛おしかった」

ああ、俺はなんて愚かだったのか。

俺は自分で気づかぬうちにあの方に惹かれ、自分が思うよりも深く愛しいと感じていた。

お慕い――いや、違う。

全てを愛していた。

そんな事に今更気づいた。

還すことを主が惜しまれたあの時、俺は首を縦に振るだけで良かった。

迷う心に添うだけで、きっと……あの俺の知らない『主』だった人は、新しい人生に俺を連れて行ってくださっただろう。身の程知らずの刀の戯言だが、もしも主が今の俺と同じ気持ちであったなら、俺はなんと愚かしい男だろうか。

もしも、あの後主が幾度も涙を流されたなら。

もしも……俺を連れて行かなかったことを繰り返し後悔したのなら。

胸を抉る痛みに、眠れぬ夜を何度もお過ごしになったなら。

こんな俺の事など、一日も早く忘れて欲しかった。

そんな願いも、もう届かない。

ぱた、ぱたと祠の屋根を雨粒が打つ。

空を見上げれば、重い鉛色の雲が空一面に敷き詰められ、大粒の雨が降り注いでいる。

天地(あめつち)のあいだにうっすら存在している俺を通り抜け、石を濡らし、草花を潤す。

主。

あなたは雨が好きだと仰った。

雨が降った後には楽しみがあるからだと笑って教えてくれた。

俺には、もう楽しみなどないのです。

「……千歳」

もうどこにも居ないあなたの名を、神を呼ぶように初めて口にする。

陸奥守や三日月が呼ぶ度、少々羨ましいとも畏れ多いとも思っていた、その名を。

以前主の妹が、姉の名を教えようかと笑っていた。

【神の世界へ連れて行けばいい】と、嘲笑っていた。

連れて行く気はなくとも、一寸知りたいと感じた事はこの俺にもあったのを思い出す。


雨はまだ降り続くようだ。

天候判断についての知識はないが、道路脇に紫陽花が咲いていた。

今が梅雨に入っているなら、長雨ということも考えられる。暫く止まないかもしれない。


思い出の中の主と共に、呆と紫陽花を眺めた。


それしか見ていなかったから、誰かが近づいてくる気配すら感じ取ろうとしていなかった。



「――悪いけど。ちょっとだけ雨宿りさせてくれ」

――誰かの声が、した。

はっと我に返って声のあった方を見れば、スーツ姿の若い男が一人、藤棚の下に留まり、ハンカチで肩口を払うようにして雨粒を拭いていた。

たいして大きくもない藤なので、雨宿りにはあまり向かないはずなのだが……ないよりはいいのだろうか。

「雷が来なきゃいいなあ」

祠の前という事で後ろめたい気持ちのまま気休めに呟いただけだろうし、誰にも見えない俺に向けてわざわざ話すはずはない。

興味もなく、返事もせずに濡れた路面を見ていると、男も路上を走る車に目を向けた。

「君、クルマそんなに好きか?」
「――?!」

驚いてもう一度振り返ってみれば、そいつは俺としっかり目を合わせている。


見えて、いるというのか……?!


「そんなに驚かなくていいだろ。わたしは先祖代々霊感が強いんだ、嘘じゃなくて本当だよ。だから……まあ、ちょっとしたところで働いているんだけど」
「…………俺に話しかけてくるな。黙っていろ」

人間と久しぶりに話をしたというのに、出たのはこんな言葉だった。

得体の知れない人間だからということもある。

あまり関わりたくはない。

「冷たいなあ。いいじゃない、袖触れ合うも他生の縁さ」
「貴様と何の縁もないと思うが?」
「かもしれないな。少なくとも、わたしの先祖は各務家ではない」

かがみ……?


その姓には聞き覚えがあった。

確か、主の妹が各務の家がどうだのと言っていたことがある。

「貴様、なぜその姓を知っている!!」
「あ、食いついてきた。なるほど。君は主の名を知っているクチの人?」

教えちゃいけなかったのに、と男はため息をついたが、そんなことはどうでもいい。

「答えろ――」

俺は男に掴みかかろうと手を伸ばしたが。

「――やめてよ。触れられると冷たいんだよ、幽霊ってのは」

男は懐から札を一枚取り出し、俺の前に突きつける。

途端、俺の腕はびたりと動かなくなり、伸ばす事も戻す事も自分の意思ではできない。

「この後も仕事があるから、あんまり霊的な念は受けたくないんだ。手荒にしないから、ちょっとそのまま聞いて。どうせ君誰にも見えないし、身体も痛かったり痺れたりしないから大丈夫でしょ」
「……貴様が僧侶か拝み屋の類なのかは知らんが、俺は祓えんぞ」
「祓う気はないさ……あ、ちょっと失礼」

男は突きつけていた札を自分の胸ポケットに入れ、再び懐に手を入れると『すまーとふぉん』と似たものを取り出す。

俺の身体はまだ動けない。

神の末席とはいえそれを制することが出来るとは、この男一体何者なのだろう。

睨んでいると、男は俺が持ち物に興味があると思ったらしい。

「気になる? これはパソコン。型が古いやつだけどね。最新型はもっと小さいのもあってね、中空にデータなんかを映し出す事も可能さ。でもわたしの仕事は機密だからね、そんなおおっぴらには出来ないんで、これくらいが扱いやすい」

聞いてもいないことをベラベラと語る男だ。


『ぱそこん』でも『すまーとふぉん』でもなんでも構わないが、身体の自由が利かない事と、男のこちらに構わぬ感じの二つに苛立ちを覚える。

この周辺に『ぱそこん』をかざし、一人でうんうん唸ったりしている。

それは、以前主が『すまーとふぉん』で写真を撮っていた行動と何も変わらないように見えた。

「君はへし切り長谷部。ふむ、練度は高い。修行も行ったようだな。大事にされてたんだね」
「――なぜ」
「旧相模国、本丸管理番号……照合完了、っと」
「おい!! ここで何をする気だ!!」
「そう怒らない。ただ、過去のデータを見てるだけじゃない」
「過去……?」

自分で言っておいて何だが、それは――そうだろう。

例え俺が本丸での生活を何一つ忘れていなくとも、一秒でも現実から乖離しているなら、それは過去の出来事なのだから。

「君、顕現した年のことまだ覚えてる?」
「……2020年」
「うん。ここは千歳という審神者が担当していた」
「……ちとせ……。俺の、あるじ……」

涙は流せないのに、目頭が熱い気がして目を閉じる。

そこには、主の姿がありありと浮かぶ。

「君は近侍で、出撃記録も多々残っている。このデータも、他の刀剣男士の事も。千歳という審神者の事も全て、この本丸にいたこんのすけが送ってくれていたものだ」

あの管狐は、油揚げをせびるばかりではなく、一応きちんと仕事をしていたのか。

今更ながら、あの狐の仕事の成果を垣間見た。

だが、俺が聞きたいのはそれじゃない。

「主は。主はどうなった……? 本丸が解体されて、どうされたんだ?」

はやる気を抑えて問うと、男は急に図々しいなあと毒づいた。

「黙っていろとか言っていたのに主となるとこれだ。
へし切り長谷部ってのはこんな奴ばっかなのかね」
「謝罪が欲しければ幾らでもやる! だから主の事を……」
「……どんな内容も、受け止める勇気が君にあるのかな」
「なに……」
「君にとって、好ましい内容ではなかったとしても、彼女のことを……真実を知りたい?」

頷く。

主の事を知ることができるなら、俺の感情などどうだって構わない。

それを見て、男はどう感じたのだろう。

「……本名、ついでに知りたい?」
「……出来るなら」

もう時効だしね、と男は言い放つと『ぱそこん』を操作する。

「えーと……審神者名、千歳。
本名【各務 久遠】は、2030年8月31日を以って審神者の資格を返還」

ああ。

あなたは、くおん、というのでしたか。

悠久の時間を意味する審神者の名は、あなたの真の名に近いものだったのですね。

「……まあ2030年っていうのは彼女が過去からの審神者だったから、2205年以降何かがあってもずれ込む。その後、実家にほど近い場所に移り住み、6年過ごした後――病気で亡くなっている」
「な……」
「以上が、彼女の人生だ。短かったね」

主が、亡くなっていた。

「……何の、病で?」
「審神者を辞めて数年で亡くなる人がたまにいたんだそうだ。衰弱したのか、刀に魅入られたのか、今まで倒してきた時間遡行軍からの怨念か。今となっては原因を調べる術は無い。 彼女も審神者でいた当時から徐々に身体を弱らせていて、何度か医師に相談していた記録がある。審神者を辞めても治らないまま風邪を引き、ひどくこじらせてしまって……亡くなった。こんな雨の日――丁度今日がね、彼女の命日なんだよ」

年代は違うけど、という男の説明はどうでも良かった。

説明された内容の衝撃が強すぎて、聞いていられなかった。

「……主……」

なぜ、あなたが、もう居ないのか。

出来るのなら、誰がここにいようとも声を上げて泣きたかった。

病を患っていたとは。

近侍であった俺にも内密にされていた。

死の直前、どれほど苦しかったのか。

どれほど心細かったか。

それを思うと、聞こえもしない主の【声】が、はせべさん、と、呼んだ気さえした。

それだけでとても辛くて、あなたの身体をこの手でかき抱きたい衝動に駆られる。

口を噤んでしまった俺に、申し訳なさそうな様子で男は声をかける。

「……だから、聞いたでしょ。いいのか、って。こうしてずっと残ってる男士は、強い後悔を持って居たりする人が多くてさ……君もそう、でしょ」
「……だがもう、俺は帰ることも消えることもできない」

こんな事なら。

もっとあなたを。

自分の気持ちを……大事にしたかった。

「そんな事だったなら……帰りたい。あの方の元へ。こんな虚無の未来など要らない。俺が、もっと主を支えて、そのお身体も労って……あ、あぁ、主。置いていかないと、仰った、のに――もう待つ事も、献身も、出来ないじゃないですか」

そうだ。

主だけではない。

あれほど良い人であった長政さまも、俺を遺して行ってしまっただろう。

身体があっても、どうあっても俺たちは……ついていくことが、できないというのか。

帰してくれ。

還して。

返せ。

あの頃に。

俺を。

主を。


「かえ、せ……!」


「……帰して、あげてもいいよ」

男の絞り出すような言葉に、俺は息を呑んだ。

適当な慰めだろう。

そう頭では思っていても、心というものは……制御しきれない。

聞き間違いだろうという思いと、本当か、という期待を込め、男を見つめる。

「帰りたいなら……後先考えない手段もある。ただし、成功率がうんと低い。三割、いや、もっと低いかも。――というのも、きちんと顕現できるかどうか、からだから。成功したって確かめることも出来ないし」

男が言うには、他の本丸に生まれる事もあるだろうし、不自然なことなども起きたり、魂魄としての形が不明瞭かもしれぬというのだ。

それに――年月を遡る際、魂が欠けて消滅することも考えられるという。

つまり、何が起こるか全く不明、かつ成功は判断できないということか。

「もし、たどり着けなくても、記憶が曖昧になってもわたしを恨まないでくれよ。それと、君も刀剣男士なのだから『歴史を変えようとしない』という約束事は遵守するように頼むよ」
「……主は、審神者を辞めて死んでしまうのだろう?」
「審神者にさせないという選択を取るならこの話はやめよう。人類の為に当時は必要だったのだから、その存在を否定することは許さないよ」

この男にとって、審神者などという過去の職業に思い入れもないだろう。

なのに、強い思いを抱いて残ってしまっている俺へ軽々しくも『許さない』などと言うのがおかしかった。

「それと……もし、戻ったとしても、君はその時間に縛られるかも」
「時間?」
「無理に時間の流れを変えて戻すのだから、定着したら固定される恐れがある。んー……つまり、一定期間が来たら何度も、戻って一定年月過ごす。そこでまた、顕現できるかどうか……毎回それがついて回る」
「よく、わからないが……本丸が解体してしまった・或いは俺が折れたのだとすれば、俺はまた主に顕現させてもらった瞬間に戻ってやり直す、というのか?」
「あ、そうそう。そんな感じ。記憶が引き継げるかどうか、ちゃんと元の主のところに行けるかは知らないけどね」

頭いいなあと童の様に褒められたが、要するに。

「顕現さえ可能ならば、俺は主と永遠を過ごすことができる……?」
「そう、なる……のかな?」
「……終わりが来ない」
「うん。呪いみたいだね」

素晴らしい、なんと甘美な呪いか。

だが……。

「どうして、そういったことをできる? そして……詳しく識っている?」

この男は何者か。

それが最初から全く分からない。

「正直に教えると、わたしはいわゆる未来の人間だ。その時代で時間遡行軍が再び活発になった背景がある。奴らも馬鹿じゃない。人間たちが審神者を廃業させた後に、再び大規模進出をしたのさ。勿論審神者とは違う意味で、歴史を変えさせない勢力である検非違使も。この世は本当に大変なことになったんだ。だから、特別補充措置という名の強制召集を出した。ずぅっと昔の日本でいう赤紙みたいなもんだよ」

自業自得ではないか。

そう答えると、その通りだよと男は苦笑した。


「だから、わたしみたいな雇われも過去に飛んで、そこに残ってる君みたいなのをさらに審神者の元へ行けるよう送る。おかしいよね、政府は運命を変えてはいけないといってたのに。 【人類を守るという名目で、運命を変えようとしている矛盾(いいわけ)】をしている。だから、審神者が必要だと歴史を作り直すんだそうだよ。そんなわけで……協力してくれるね?」
「……断る気がなさそうな奴を選んで送る、の間違いだろう」
「……そうだね。断られても祓えないなら放置するしかないし――わたしもまだまだノルマがあるんだ」

で、どうするの、と聞いてくる。

「……頼もう。あの時代に。主の元へ帰りたい」

その返事しか、望まれていないのだろう。

そして、この返事が出る事も、奴は会話の中で確信していたはずだ。

「ありがとう。主への忠義はさすがだよ、へし切り長谷部」

忠義、か。

そんな、綺麗なものだけではないだろうけれど。

「最終確認だ。千歳という審神者は、この人で間違いないかな」

男は『ぱそこん』を弄り、俺にその小さな画面を見せる。

その小さな板の中に、ああ、紛うことなき主のお姿が表示される。

緊張したような顔で、こちらを見つめた写真。

途端に愛おしくなった。

「あぁ……主だ。相違ない」
「じゃあ眼を閉じて。主の事を、本丸の事を強く意識して。よし、じゃあ転送を……始めるからね」

言われたとおりに目を瞑り、俺は主を想う。

途端、強く後方に引っ張られる感覚。

「……永遠の忠義の果てに、君が視るものは何だろうね」

男は最後と言ったくせにまだ喋っている。

精神を保つのに精いっぱいで、奴の話はほぼ聞き取ることができない。

「あのね、今年はね――、奇しくも2205年、だったんだよ」


その言葉だけ、やけにはっきりと聞こえた。




ここは……どこだ?


ふと気が付くと、真白の空間に俺の意識があった。

何もない場所。

誰もいない。

俺でさえ姿が無い。

意識のみだ。

失敗――したのか。

そう思った矢先、目の前にすぅ、と透明な手が伸びて俺に触れる。

「……!?」

暖かい、優しい手だった。

俺のかたちはないが、その手は確かに俺に触れ、本人(?)も驚いたように手を引こうとする。

それを離してはいけない気がした。

「――待っ……!」

思わず、声を出した瞬間。


ずしりと重みが、加わった。



嗅覚などの感覚も、飛び込んでくる。

久しぶりの、この不自由かつ自由な感覚。

感慨に浸るまもなく、どっ、と、何かの上に倒れ込んだ。

瞬間的に訪れたのは軽い痛み。これも久しぶりだ。

「っつ……!」

揺れる視界に入ったのは――畳と、女の足、だと思われる。

「だ……大丈夫ですか?!」

その声に、びくりと身体が震えた。


今まで忘れていたはずの【音】が戻って、ぴたりと符合する。


恐る恐る、眼前の女を仰ぎ見る。

藤色の総髪(今は『ぽにーてーる』と言うらしい)に、大きく見開かれた鳶色の眼。

忘れるはずもない。


俺の、主だ――。


「あの……」

突然倒れ込んだのだ。

自身も相当驚いたにもかかわらず、俺を案じ、投げかけられる声。

返事もせず、ただじっと凝視し続ける俺を不審に思ったらしい。

不安げな声を出し、困った様子で隣に立った男を仰ぎ見た。

「無様なところをご覧に入れて申し訳ございません。別の個体……いや、別刃(べつじん)とはいえ、このへし切り長谷部、ただただ恥じ入るばかりです」

そこにいたのは、黒鎧の、俺だった。

へし切り長谷部の別個刃(こじん)、などではなく、この『俺本人』なのだ。

何故分かるのかと問われても、説明ができないが――過去の俺。

主を守るように前へ一歩進み出てから嫌悪と苛立ち、そして――若干の嫉妬を込めた瞳で、俺が俺を見下ろしている。

俺が二人存在するなど、こんなことがあるものか。

「俺がここにいるのに……どうして、もう一人いるんだ!」
「随分失礼な物言いを。それに、全く同じ台詞を俺も言いたい。既にこうして修行に出た近侍の俺がいるのだから、主もわざわざもう一人顕現させることもなかろうに……。だが、主が望んだことだ。光栄に思えよ」

どこか自慢気に語ってくる近侍の俺には、俺が発した言葉の正確な意味が伝わっていない様子だ。

この様子では、目の前にいる男が自分だということも気づいていない。

それもそうだ。

俺でさえこの事態を飲み込めていない。

感覚的に理解しただけなのだ。

俺がこうして主の側にあった頃は、二振り目などいなかった。

俺しかいなかった。

だから余計に納得がいかない。

「……あ、るじ……? なぜ、俺、を?」

急に話を振られた主は、俯いて自身の指先同士を絡めながら『わかりません』と申し訳なさそうに言う。

「分からないけど、こうしたほうがいいんだろうって、なぜか、思いまして……」
「貴様。主を困惑させるようなことをするな! ここが嫌なら刀解してもらえ。何なら俺が折ってやろうか?」

横から俺が吼える。


うるさい。


そうして隣に置いて頂きながら、愚鈍に過ごしてきた馬鹿なお前に、俺の何が分かる……!

主のお身体の不調すら知らず、のうのうと生きていただけの――俺。

そう、こうして怒りをぶつけたところで相手は俺自身なのだ。

目の前の俺は、いけ好かないへし切り長谷部が来たこと以外何も分からない。

顕現させた主でさえ困惑しきりなのだから、誰も状況を把握できていないということだ。

……何が起こるか分からない、というあの男が言っていた意味は、こんな想定外のことだった。

だが、このままでは本当に俺に折られるかもしれない。


嫌だが、ここは下手に出るしかあるまい。

「……大変失礼致しました。別の姿の俺がいたことに少々、驚いたもので……無礼をお許し頂きたく」

片膝をついて謝罪の意を示すと、主はぎこちなく頷き、俺へ楽な姿勢を、と声をかける。

「挨拶が遅れましたが、私は、千歳。この本丸と貴方たちの主……ということになります」

よろしくお願いしますね、と手を差し伸べられた。

初めましてではない。

俺はあなたを、そこの俺よりずっとよく識っている。

「ご存じでしょうけれど……へし切り長谷部と申します」

主の手をそっと両手で包むように握ると、感激に胸が震えた。

こんなに不自然な状況だというのに、主に再びお目にかかれたことがこんなにも嬉しい。

「慣れるまでは大変だと思いますが……不便なことがあったら私や近侍にすぐ相談してください。なるべく改善できるようにはします」

主は目を細め、安心させるように優しく笑った。

ああ。

誰に対してもそうだったのです、あなたは。

今ならそれがよく分かる。

そして、主の寵愛はこの俺に向かないのだろう。ずっとそこの俺に、向けられていたのだから。

胸に滲むように広がった痛みと不満は当分消えそうにない。

「……長谷部さん、ええと……新しい長谷部さんに、お部屋を差し上げたいのですが」
「鶴丸の隣が空いております。そちらで良いでしょう」

主の隣にいる俺の気持ちが、手に取るように分かってくるのが少々気持ち悪い。

自分以外に主が微笑むことに気づかぬ嫉妬を抱き、面白くないのだろう。

それに、鶴丸の隣は皆が驚かされて心が安まらぬから嫌だと苦情続きだったはずだ。

そこを平然と割り当てる心の狭さ。

自分ながら腹立たしい。

主、近侍の部屋の隣が空いております。

そこでお願い致します。

何卒。


「そうですか……じゃあ、鶴丸さんの隣をお願いしますね」
――ああ、主。

伝えられぬ事実がもどかしい。

「はい、近侍に全てお任せください」

お前になど任せきれるか。

くそっ。

唇を噛みしめ、文句を留めるのに精一杯の俺は、敗北感を味わいながらも主に一礼して近侍の後を着いていく。

鶴丸の部屋は主の部屋から遠い。

しかも短刀たちの部屋が近いので声が響いて煩いのだ。


「――おい。調子に乗るなよ」

自分に対して愚痴を吐くのも悲しい話だが、内心それをぶつけていると、その根源である近侍の俺が口を開く。

毒づいていたのが聞こえたのだろうか。

「主は、お前が顕現したから親身になさっただけだ。不埒なことを考えれば、斬り捨てるぞ」
「なんだと……?」

言うに事欠いて『不埒なこと』だと。

無意識にそう感じながら、自分の想いに気づかぬ俺の方が恐ろしいわ。

「言われなくても、分かっている……!」
「どうだか……先ほどの態度からはそう見えなかったのでな」

クッ。

癇に障る言い方を。

調子に乗っているのはお前だろう。

いつか叩きのめしてやる。

結果は最悪だが、俺は再び――この本丸に戻ってくることが出来た。

最大の敵は自分自身ではあったものの、主にお目にかかれて本当に、本当に嬉しい。


主。

本当に俺をここへ帰したあの男の言うことが正しいのならば。


俺は、もうどこにも行きません。


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