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「――本日は、大事なお願いがあって参りました」

緊張した面持ちで私の前にやってきた長谷部さんを見た瞬間、彼が言わんとしたいことが何かを――悟った。

実際彼の口から語られた【それ】に対して何も違和感を覚えなかった。

だって、私も絶対にその話だと思っていたから。


【それ】は……『修行に出たい』ということ。

今まで、何人か私にその話を持ち出しては期待と少しの不安を抱えながら旅立っていき、皆晴れやかな笑みと土産話を持って本丸に戻ってきてくれた。

何度経験しても誰かを修行に出すときには心配で、無事に帰ってくることだけを毎日願っている。

それは今後も変わらないと思う。

でも今回、長谷部さんが私に話を切り出したときだけは……私は言葉を詰まらせて『返事は明日まで待って欲しい』と答えるのが精一杯だった。

長谷部さんも暫しの沈黙の後、了承の意を述べて部屋を出て行った。


そんなことがあったから、私はどうするべきか朝からずっと考え続けている。

厨当番の方々が作ってくれた美味しそうな里芋の煮物も、今日は残念ながらどんな味だったか覚えていない。

部屋に戻っても私が書かなければいけない書類は堆く積まれていて、手元に置いた書類でさえ内容が頭に入らず、全然片付いていない状態だ。

「……修行……」

考えなくても答えは出ている。

長谷部さんが行きたいというなら、私は頷くだけでいい。

他の男士にはそうしてきた。

だから、同じようにすれば良いだけ――なのに。

どうしてそれが出来ないのか。

胸のつかえが取れなくて、重い溜息だけが口から漏れる。

「主。よろしいでしょうか」

障子の向こうから長谷部さんの声がして、私は思わず背筋を伸ばした。

「は、はいっ……、どうぞ!」

失礼します、と姿を見せた長谷部さんは机上の書類に視線を投げてから私を見据える。

今一番気まずい人が来てしまって、私は内心慌てつつも未着手の書類に視線を逸らしながら、ごめんなさいと先に謝罪した。

「まだ終わっていなくて……明日までには片付けます」
「ああ……いえ、書類のことではなく……」

そうでは無いのだと言いつつ内容を口にしない長谷部さん。

もしかすると、私に修行に行ってもいいかどうかを再度聞きに来たのかもしれない。

「っ、あの……」

言うんだ。


行ってもいいよ、って。


でも、その一言が出ない。

出そうとすると喉でつかえて声にならない。

「――主。本日はお体の具合が優れないのでしょうか……?」
「え……?」

思いもしなかった言葉に、私は間の抜けた返事をしてしまう。

長谷部さんは心配そうに私の顔を見つめながら、今日は常にぼうっとしておられますので、と告げる。

どうやら、私の様子が何かおかしいというのは気づいていたみたい。

それが、今回の事とは思っていないんだ……。

「お気遣い頂いてありがとうございます。大丈夫、具合は悪くないです……ただ、ちょっと考え事をしていて」

すると、長谷部さんも『考え事』と口にし、もしやと問う。

「……不躾ですが……俺のことでお悩みになっているのでしょうか」

素直に頷くのも憚られたが、ここで嘘をついても長谷部さんは気づくだろう。

私はこくりと頷いて、迷っているということを正直に伝えた。

「長谷部さんが修行に出たいと仰るなら、私は……きちんと送り出してあげたい。乱ちゃんも、五虎ちゃんも……他の方もそうしてきたんです。反対はしたくない。でも、今回は……素直に言えない。これが本心です」
「……反対であると仰るのであれば、俺は――」
「違うんです。そうじゃないの……」
「賛成は出来ないが反対でもない……ということでしょうか? では、主の懸念は一体……?」

訊かれて胸の柔らかい部分がずきりと痛む。

そして、その痛みは答えを引き連れて――認めたくない本当のことが苦しくて……ぐっと唇を噛む。

「……私が、もっとしっかりしていたら。あるいは、凜々しくも清い心を持っていたら、こんなに悩まなくて済んだのかもしれません」
「主?」

困惑する長谷部さんの眼差し。

それが私を非難するものではないのも判っているけれど、自分の心が痛みを訴えている。

「私の言っていること、何が何だか分からないと思います。でも、分からなくていいです……ごめんなさい」
「主、どうか感じたことを正直に仰ってください。俺はあなたのお心が知りたい」

長谷部さん。

あなたが知りたいと思うのは、忠義から来る願いなのでしょう?

ここで、あなたが好きだから行かせたくないと言ったら、あなたは私を軽蔑するのではないでしょうか。

仮に人の身体を得ても彼は神様で、私はただの人間で。

いつかお別れがやってくる。

それは必然だから覆ることもない。

それが、今回かもしれないと感じたのはどうしてだろう。

「……長谷部さんは、長谷部さんは……私の自慢です。それは嘘じゃない。でも、長谷部さんにとって、私はただの……小娘で……記憶に残れる主ではないのでは……ないかと……」
「……主」
「私は戦国の世に生まれることはありませんでした。だから刀の扱いも知らない。私は信長公のような威厳も、官兵衛さんのような智もありません……。長谷部さんの主として、誇れる突出した何かがあるわけでは無い。それが悔し……」

――うそつき。

そんな綺麗な言い訳ばっかりじゃ、ない。

違う、違うんです――私は片付かない気持ちを声に出し、長谷部さんは私の肩にそっと触れ、落ち着いてください、と私の目をまっすぐ見つめながら言う。

「……主、何故そんなことを思うのです。あなたは俺のことを『絶対に誰にも下げ渡さない』と言ってくださいました。その時、俺がどんなに嬉しかったか……あなたには分かりますか」

大丈夫ですよ、と優しく諭そうとする長谷部さん。

だから余計に、自分の心の醜さが嫌になる。

「……私、信長さんや官兵衛さんに嫉妬してしまっているんです。長谷部さんの思い出にこうしてずっと残っていられるあの方々が羨ましいって。修行に出ちゃったら、長谷部さんはその主と数日一緒に暮らして、更に想いを深くされるんだって思うと……胸がモヤモヤして。自分がみっともなくて厭になるんです」
「…………」

絶句する長谷部さん。

その反応が当たり前なのだろう。

普通『あなたが元主のところでニコニコしながら過ごすのがいやだから修行に行かせたくない!』とかそんなことを言われたら引く。

「……ごめんなさい。今言ったことは忘れ――」「ふ、っ、くく……」

涙が溢れそうだったのでティッシュを数枚取ったところ、長谷部さんは俯いたまま肩を震わせているところだった。

涙も出そうで鼻を啜っているようなすごい恥ずかしい顔だから笑われるのも仕方がないかもしれない。

「……ふふ、元主に嫉妬とは、そんなことをあなたは一日考えていたのですか」
「……はい……」
「それなら、俺がいつも他の奴らに思っていることですよ。主は俺をいつも側に置きながら短刀の連中を撫で、褒めちぎり、陸奥守や燭台切に至っては審神者名まで軽々しく呼ばせている。俺が短刀やあなたの初期刀であったなら、髪や頬を撫で、褒めてくださるのでしょうか。あなたの名を親しみを込めて呼んで構わないか。そう思うときもあったのですよ」

突然長谷部さんはそう胸中を吐露し、私は反対に目を見開くばかり。

まさか、長谷部さんがそんなことを思っていたなんて思わなかった。

私をからかっているのではないだろうか。

そう思いながら彼を見ると、真っ直ぐな視線で受け止められた。

うう、忠義って、なんかつらい……。

「……え、っと、撫でて欲しいって言ってくれれば、いつでも……」
「ねだらなければ撫でていただけませんか」

逸らされることなく青紫色の瞳で私を見つめる長谷部さん。


撫でて良いというならいつでも撫でたいのは私の方です。


「私みたいな女が気安く触れて良いんでしょうか……」
「あなたが俺に触れられなければ、この世の誰ならば許されるとお思いなのでしょうね」

ふ、と笑んだ表情がどこか蠱惑的で、私は誘蛾灯にふらふらと引き寄せられる羽虫のように、彼へと手を伸ばす。

長谷部さんは嫌がりもせず、私の手を取ると自らの頬へ誘った。

「俺はあなたのものですよ、主。織田信長も黒田さまも今の俺を拘束できない」

ぼうっと彼に見惚れて――もっと触れたい。

そう思ってしまう。

「……」

こんな至近距離で見つめ合っているから、胸が高鳴る。

どきどきしているのはきっと私だけ。

悟られたくはない。

「……こんなに近くで顔を付き合わせて……肌に触れられても厭じゃない?」
「主を嫌がる刀などおりません」
「あなたを……刀だと、思っていてほしいですか……?」

その問いには、長谷部さんは答えない。

俺が決めることではないでしょう、と曖昧に躱して、全てを私に委ねてくる。

「長谷部さんは、時々意地悪ですね」
「主が俺を試そうとするからでしょう」

試しているのか試されているのか、そう演じる長谷部さんが一枚上手なのではないかとすら思えてくる。

「修行に出たら……きちんと帰ってきてくれますか?」
「嫌がられても、塩を撒かれても俺の居場所はここですから。必ず帰ってきます」
「私のことを忘れないでくださいね」
「俺も、主に忘れられぬよう毎日手紙を出しましょう」
「はい。短くても良いから、待ってます」

すると、長谷部さんはこくりと小さく、しかし強い意志を載せて頷いた。

近くで見ても、遠くで見ても。

長谷部さんは綺麗な人だ。

他の男士の皆様も綺麗なかんばせだけど、より強く綺麗だって思うのは私が長谷部さんを好いているせいなんだろう……。

「長谷部さん。目を閉じてください」
「?」

言われるがまま、素直に目を瞑る長谷部さん。

大丈夫かな。

薄目開けていたりしないよね。

「待ってますから、早く帰ってきてくださいね」

そう言って彼の額に自分の唇を軽く触れさせるよう押し当てると、長谷部さんは大きく体を震わせた。

「っ……!? 主!?」

ばっと体を離し、自分の額を手で隠すようにし、私を注視する。

「あ。あの、親愛を込めたつもりで……っ」

長谷部さんはみるみる顔を赤くし、ご自身が何をなさったかおわかりですか、と責めてくる。

「ごめんなさい……厭だった、ですよね……」
「……厭といいますか……主と俺には、そういったところに見解の違いがあるのかもしれません。驚いてしまい、失礼致しました」
「えっ」

私、まずいことをしてしまったのだろうか。

一応おでこも……まずいのかな……。

「……」
「……」

まずいというか、気まずい。

「主、そ、そうだ、書類を片付けましょう」
「い、いいですね。そうしましょう。あっ、修行は帰ってきてくれるなら大丈夫!」
「はい!!」

私たちはぎこちなく言葉を交わしながら山と積まれた書類を片付け(出来た側から長谷部さんに手渡すだけなんだけど、手が触れると長谷部さんはその度にビクッと手を引っ込める)深夜になってからおやすみなさいをして、私は慌てて布団を敷き始める。

そのとき、長谷部さんは妙に驚いて、お休みをいうと逃げるように部屋を出て行ったけど、変な勘違いをさせてしまっただろうか……。


翌日、燭台切さんにあれやこれやと命じて(ボーっと食事をしている私の代わりにどうやら近侍を決めてしまったらしい)長谷部さんは修行に出かけてしまった。

「千歳さん、数日間よろしくね」

燭台切さんは私を主とは言わず、名前で呼ぶ。

詳しい経緯は省くけど彼は私の先輩の刀の形見であり、無理に主とは呼ばなくて良いよと告げてあるためだ。

「ええ、よろしくお願いします」

朗らかに挨拶をし、今日の仕事に関して打ち合わせをしていると、そういえば、と燭台切さんは長谷部さんの事を訊いてきた。

「妙に長谷部くんは千歳さんとぎこちなかったけど、何かあったの?」
「……そうだ、燭台切さんだから聞いちゃおうかな」
「ん?」
「額にキス……接吻? することって、そんなに大変なのでしょうか……」
「……千歳さん?」
「長谷部さんが見解の違いがあるのかもって……」
「見解も何も……千歳さんだって、誰彼構わずしないよね。誰かに唇を寄せること自体、特別でしょう?」
「……え、ええ……そうですけど」
「好意があるというのは伝わったんじゃないかな」
「……いやらしい気持ちがあったわけでは」
「はは……それは、受け取った長谷部くん次第だね」

燭台切さんの苦笑いを聞きながら、私は自らの行いを恥じ入ることとなった。

長谷部さんが帰ってくるときにそっちも忘れて帰ってきてくれたら有り難いと――強く願うしかない。


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